四季 秋 森 博嗣 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)西之園萌絵《にしのそのもえ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)真賀田|左千朗《さちろう》 ------------------------------------------------------- 〈帯〉  犀川&萌絵が再び  真賀田四季に迫る!  ついに天才の残した謎が解かれる……。 [#改ページ] 〈カバー〉  精緻の美、森ミステリィ  時間と空間を克服できるのは、  私たちの思想以外にありません。  生きていることは、  すべての価値の根元です。  手がかりは孤島の研究所の事件ですでに提示されていた! 大学院生となった西之園萌絵《にしのそのもえ》と、彼女の指導教官、犀川創平《さいかわそうへい》は、真賀田四季《まがたしき》博士が残したメッセージをついに読み解き、未だ姿を消したままの四季の真意を探ろうとする。彼らが辿り着いた天才の真実とは?『すべてがFになる』の真の動機を語る衝撃作!  もう一度出せる秋 森博嗣(もり・ひろし) 1957年愛知県生まれ。 現在、国立某大学の工学部助教授。 [#改ページ]  四季 秋 [#地から1字上げ]森 博嗣 [#地から1字上げ]講談社ノベルス [#地から1字上げ]KODANSHA NOVELS [#改ページ]  目次  プロローグ  第1章 漸近し集束した曲線  第2章 発散の手前の極解  第3章 収斂の末のゼロ・デバイド  第4章 時間変化率の不連続性  第5章 祈りと願いの外積  エピローグ [#改ページ] [#中央揃え]THE FOUR SEASONS [#中央揃え]WHITE AUTUMN [#中央揃え]by [#中央揃え]MORI Hiroshi [#中央揃え]2004 [#改ページ] ひとびとは、たおれたらくだの胸に短刀を突きさして、その肉を火であぶりました。わたしの光は燃えている砂をひやし、はてしない砂の海のなかの死の島ともいうべき黒い岩のかたまりを、ひとびとに示してやりました。この人たちは、人の通ったことのない道で敵に出あいませんでした。また、あらしもおこらず、恐ろしい破滅をもたらす砂柱が隊商の上にまきおこりもしませんでした。家では、美しい妻が夫と父のために祈っていました。「あの人たちは死んだのでしょうか?」若い妻は、わたしの金いろの半月に、こうたずねました。「あの人たちは死んだのでしょうか?」こう若い妻は、わたしのかがやく月の輪にたずねました。 [#地付き](BILLEDBOG UDEN BILLEDER/H.C.Andersen) [#改ページ] プロローグ [#ここから5字下げ] そのとき、結婚の指環が、かがやかしいブチントロから海の女王アドリアへ投げこまれたのです。アドリアよ! 霧のなかにかくれよ! 寡婦のヴェールでおまえの胸をおおうがよい! そして、それを、おまえの花むこの霊廟の上に、かかげよ。大理石にきざまれた、幽霊のようなヴェネチアの上に! [#ここで字下げ終わり]  土砂降《どしゃぶ》りの雨の中を西之園萌絵《にしのそのもえ》は歩いていた。傘は下方向の荷重《かじゅう》を増し、雨粒の無数の衝突音を増幅させるのに大いに役に立っていた。水族館に来たと思えば諦《あきら》めもつく。  研究棟の渡り廊下で一瞬だけ傘が静かになった。駐輪場には沢山の自転車が整列している。中庭のアスファルトはほとんど水没状態だったので、どこを歩いていけば被害を最小限に食い止められるかを考えなければならなかった。しかし、既にサンダルは水に浸《つ》かり、着ているものもびしょ濡れに近い。  注文した専門書が入荷したとの連絡があったので、生協の書籍部へ出かけた。本を受け取り、雑誌などを立ち読みしてから建物を出たら、この夕立である。来るときにも、雲行きが怪しいとは思ったものの、こんなに急に降るとは予想外。雨は酷《ひど》くなる一方だった。しかたがないので、購買部で安物の傘を一本買って、それをさして戻ってきたところだ。その種の無駄は、萌絵にとっては問題ではない。それよりも、自分の趣味に合わない傘を、たとえ短時間とはいえ使っている状況の方が不満だった。  生協から建築学科の研究棟までは、歩いて五分程度の距離だ。途中で片側二車線の一般道路を横断する必要がある。N大学はキャンパスを二分する形でメインストリートが貫いているからである。その道路を渡るときにも、排水能力を超えた降雨のため、横断歩道の半分は、川のように流れる水の中を歩かなければならない状態だった。  本が濡れないように胸に抱え込み、足許《あしもと》を見て歩いてきた。きっと、少し待てば雨はやむだろう、どうして待てなかったのか、と考えながら。だが、こうなってしまうともう、早く温かいシャワーを浴びている情景しか思い浮かばない。  駐輪場の奥へ視線が向いた。向こう側は実験棟である。そこの大きなシャッタの前に立っている人物が一人。なんとなくピントが合うまえから、彼女の神経に同調する電波を予感した。くすぐったいような、そして甘いような。それは、犀川創平《さいかわそうへい》だった。  萌絵は再び雨の中へ突入していく。  水を跳ね上げ、駐輪場を一気に横断した。実験室のシャッタは閉まっていたが、その部分にだけ大きな庇《ひさし》が張り出しているため、犀川はそこで雨宿りをしているのだ。彼は煙草を吸っていた。脇にはバインダを抱えている。雨が落ちてこない領域に萌絵は駆け込み、傘を広げたまま横に置いた。  無言で彼に微笑みかける。 「どうした?」犀川がきいた。「実験室に何か用事?」 「いえ……。先生こそ、こんなところで何をなさっているんですか?」萌絵はきき返した。「煙草を吸っている、というのは、なしですよ」 「雨宿り」犀川は煙を吐く。それもなしだと言うべきだったと萌絵は後悔する。「これだけ雨が降ると、ニコチンを吸収してくれるかもね。アクア・フィルタ」  どうやらジョークらしいが、アクア・フィルタというものを具体的に萌絵は知らなかった。面白さはわからない。 「どちらへ行かれるんです? 私の傘で一緒にどうぞ。少し小さいですけれど」  こんなことならば、もっと大きな高い傘を買うべきだったか。 「三号館」犀川は答える。「遠いからいいよ」  三号館は生協の方角だ。萌絵には逆方向だった。しかし、遠いからというのが理由ではないことは明らかである。人目を気にしての発言に決まっている。 「それじゃあ、先生、この傘をお使いになって下さい。私、すぐそこですから。ね? お急ぎなのでしょう?」 「いや、委員会だからね。遅れたってどうってことないよ。できれば、少しでも遅れたいくらいだ。ここでぼうっと雨を眺めている方がずっと有意義だね」 「本当にお嫌なんですね」萌絵は犀川の代わりに小さな溜息をついた。いつも会議のまえになると顕《あらわ》れる憂鬱《ゆううつ》そうな彼の顔、それを見ることが、彼女にも憂鬱のたねだった。二次感染と呼べるのではないか。できれば、犀川が好きなことができる時間、つまり研究に没頭できる時間が少しでも増えれば、と真剣に願っている。けれど、こればかりは彼女にはどうすることもできない。 「もう、行きなさい」犀川は無表情のまま小声で言った。「君がここにいる理由はないだろう?」 「ないわけないでしょう?」と口にしようと思ったが、萌絵は思い留まった。そういった品位に欠ける発言を思いついただけで反省しなければならない。  雨の音。  二人の間には沈黙。  しかし、こういった状況には既に萌絵は慣れている。この状況が楽しいとさえ思えるほどだ。 「先生、何を考えているの?」彼女は、少しだけ犀川に躰《からだ》を寄せてきいた。彼女の左腕と、彼の右腕の距離が二十センチ以内になった。 「うん」犀川は微妙に頷《うなず》いてから、煙を細く吐き出した。「ずいぶんまえのこと……。変なことを思い出すよね、人間って」 「何を思い出したんです?」 「妃真加《ひまか》島の研究所で、停電になったときのこと」 「うわぁ、いきなりスペシャルですね」萌絵は少し笑った。しかし、犀川の横顔は笑っていない。彼女は急に心配になった。  彼の手を握ろうか、と考える。閃《ひらめ》いたというよりも、思い出した、に近い。  中庭の向こう側には研究棟が建っている。誰かがこちらを見ているかもしれない。けれど、そんなことは問題ではない。どうしてこんな場面で、そんな客観的なことを考えるのかしら、と自分に腹が立った。 「あのときは、外で雷が落ちたのかなって思ったんだ」犀川は呟《つぶや》くように淡々とした口調で話した。「あそこは窓がなかったからね。想像だけれど、外は土砂降りなんじゃないかなって、その映像を頭の中で、一瞬だけ思い描いた。それ以来、こうして雨が降ると、あのときの状況を思い出してしまう」 「そういうのって、ありますよね。ブックマークみたいなのを、勝手につけちゃうんですね」 「印象が強すぎて、メモリィに刻まれたまま消えないわけだね。もう、何年まえになるかな?」 「四年と……」萌絵は二秒ほど目を瞑《つむ》った。「七十七日です。ああ、計算が遅くなったわ」  自分の計算能力の低下よりも、昨年の事件のこと、そして、真賀田四季《まがたしき》のこと、さらに、四季と犀川のことが頭の中で同時にポップアップして、しかもそれらが混ざり合い、蠢《うごめ》き合い、星雲のように回転しつつあった。計算が遅かったのは、そちらに気を取られていたせいだ。 「今頃、真賀田博士はどうしているだろうね」犀川は呟いた。  萌絵は彼の方へ近づき、肘《ひじ》で彼の腕を押した。  接触。  軽く。  犀川は、煙草をくわえたまま、前を見ていた。  数秒後に、片手を持ち上げ、煙草を指に取り、その一連の動作の流れだというかのように、ようやく萌絵の方へ視線を向けた。  睨《にら》みつけてやる。  犀川は、口もとを僅《わず》かに上げる。五ミリ。否、三ミリ。  それから、遅れて肩を僅かに上げた。  メガネが濡れている。  前髪から滴《しずく》が落ちそうだった。 「なんか、怒っているみたいだけれど」彼は言った。  無言で小さく頷いてみせる。それが可能なのは、怒っていない証拠だが。 「そういう心配そうな顔をして、隠れて弟の訓練を見守っているお姉さんがいたね」犀川はまた前を向いて話した。口調はまったく変わらない。 「え?」最大加速で頭をフル回転させたが、思い当たらない。犀川の言葉の意味がわからなかった。だが、こういうケースは稀《まれ》ではない。「何のお話ですか?」 「巨人の星だよ。星飛雄馬《ほしひゅうま》」 「ホシヒューマン? 何人ですか?」 「花形満《はながたみつる》と結婚するんだよ、そのお姉さん」 「え?」萌絵は口を開ける。「あの、先生?」 「ちゃっかりしてるよね」犀川は目を細めて微笑んだ。 「誰がですか?」 「だから、星飛雄馬のお姉さん」 「知りませんよ、そんな人」 「うん」彼は頷いた。「まあ、そうだろうな。どう? 機嫌、直った?」 「こういうのは、直るって言うんですか?」萌絵は犀川を睨みつけていたが、思わず吹き出してしまった。  残念ながら、直ったみたいだ。 [#改ページ] 第1章 漸近し集束した曲線 [#ここから5字下げ] すべては去りました。もはや、物音一つ聞こえませんでした。あの一行は立ち去ったのです。しかし、廃墟はあいかわらず立っていました。これからもなお数百年のあいだ、ここに立っていることでしょう。しかも、その時はだれひとり、今のこの瞬間のかっさいのことも、美しい歌姫のことも、その歌ごえや微笑のことも知るひとはないでしょう。すべては忘れられ、すぎ去ってしまうのです。 [#ここで字下げ終わり]      1  真賀田研究所で四年まえに起きた事件は世界を震撼《しんかん》させた。  その理由は二つある。  第一に、事件のさらに十五年まえの出来事がバックグラウンドとして存在したことが挙げられる。その出来事とは、すなわち、真賀田四季が、彼女の両親である真賀田|左千朗《さちろう》、真賀田|美千代《みちよ》を殺害した驚異的な事件のことだ。当時、既に真賀田四季は世界的な知名度を誇っていた。天才少女として、マスコミにも頻繁《ひんぱん》に取り上げられ、大いに人気を集めていた。そういった状況下で発生したその事件は、誰もが耳を疑う、とても信じられない出来事だった。  当然ながら、その後、四季はブラウン管から姿を消し、世間が見ることができる真賀田四季は、録画された過去の映像に限定された。人々の前では、図《はか》らずも、彼女はずっと十四歳の少女として持続することになった。しかし、その後の十五年間という時間は、この鮮烈で特異な記憶を消し去るには短すぎたし、また、舞台となった特異な空間も、綺麗に忘れ去るには不可解すぎた。誰もが、真賀田四季を、そして彼女の事件を記憶に留め、語り継がれるだけの話題性が維持されていた。  両親殺害に関する裁判は世間が注目する中で行われたが、結局、四季は無罪となった。だが、事件後も判決後も、一貫して四季は人々の前には姿を現さなかった。しばらくの間は、マスコミが彼女を追いかけようとして、数々の微細なスクープで話題を作ったものの、彼女自身の姿を捉《とら》えることはもちろん、居場所をつきとめることさえできなかった。裁判後一年ほどして、マスコミは四季の追跡を諦めた。  しかし、その後も天才真賀田四季の知名度はまったく衰えなかった。それどころか、その十五年間、彼女が公の場に姿を見せなかったことで映像的な枯渇状態が続いたため、彼女に関わるあらゆる事象の神秘性は深まる一方だったといえる。見られないことで、人々が抱く真賀田四季のイメージが減衰することはなく、逆に増幅するばかりだったのだ。  それでも、ようやく落ち着こうとはしていた。振幅が定常化し、細波《さざなみ》に近い平穏な状況がやっと訪れようとしていた。それはまるで、これから演技に挑《いど》もうとする体操選手が、動きを止め、呼吸を整えるときのような、静けさの一瞬だったかもしれない。四年まえの事件は、そんなタイミングで発生した。  さらに、第二の理由は、成人し大人の女性になった真賀田四季が、新たに犯した殺人、という強烈な印象にあるだろう。  まず、この事件によって、世間の人々は、十四歳の少女から、二十九歳の成熟した女性へ、真賀田四季のイメージを切り換えなくてはならなかった。  それだけではない。  間違って一度だけ罪を犯す、といった状況ならば、まだ一般人の理解、あるいは同情、そして許容の範囲内だったといえるだろう。  それを、二度も、しかも、自分の血までも断ち切ろうとした行為に、人々は震撼したのである。  これは、通常の想像をはるかに越えるものだった。どの民族にも、どの歴史にも、とうてい受け入れられるものではなかった。それを、四季はあっさりとやってのけたのである。  十五年間の歳月の中で、  狂うことなく、  冷静で精密な計算の結果として、  それは選択され、決断され、実行に移されたのだ。  その凍りつくほどの冷たい印象こそが、世間の人々を震え上がらせた。  そして、  真賀田四季は、その四年まえの事件の際に逃亡し、行方がわからなくなった。  両親殺害後の十五年間、彼女は妃真加島の研究所に閉じ込められていたことが明らかにされた。彼女はついに、そこから逃げ出したのだ。  現在は、どこにいるのかわからない。  それが、ますます不気味であり、かつ魅惑的だった。  現に、若者の中には、真賀田四季に傾倒した者たちによる集団行動が全国で勃発《ぼっぱつ》し、話題になるほどだった。彼らにとっては、四季は既に神に近い存在だったといえる。  さて、世間が認識していることはここまでだ。  天才少女は、十四歳のときに両親を殺害した。  以来十五年間も閉じ込められていた孤島から脱出した。  それが四年まえの夏のこと。それ以後、四季の行方《ゆくえ》はまったくの謎。ときどき彼女に関する話題が各メディアに、また人々の間に上ることがあっても、今現在、四季がどこで何をしているのか、誰も知らなかった。ただ、普通に一般的な時間が流れていれば、真賀田四季は現在三十三歳になっているはずである。  ある者は以前から、天才の成長は既に止まっていると主張した。特に証拠があったわけではないが、そうしたジレンマとストレスから、天才は事件を起こし、そして逃亡した、という仮説を導こうとした。また別の者は、そうした俗物的な価値観こそ天才には相応《ふさわ》しくない、一般人の勝手な予測、つまりは限界を超えられない凡人の卑《いや》しい発想だと反論した。  西之園萌絵は、しかし、それらの一般人とは別の次元にいた。世間の誰もが知らない真賀田四季を、萌絵は知っていたからだ。つい最近、彼女は四季に会ったばかりだった。それは昨年の暮れのこと。たった十ヵ月まえのことである。  そのときのショックは、非常に大きかった。十ヵ月では、何一つ忘れることができない。それどころか、これから将来にわたってもずっと、彼女の人生にのし掛かる大きなウエイトとなるだろう、と予感された。  どうして、そんなに真賀田四季のことがショッキングなのか。  その最大の理由は、もちろん犀川助教授との関係にある。  幾つかの点において、萌絵は自分の能力を知っている。たとえば、一般の平均的なレベルよりも、彼女は数字の計算を高速に処理することができた。そういったちょっとした特徴は誰にもあることだが、人はえてして自分の長所にしがみつくものだ。彼女自身、自分が自分の能力にしがみついていると考えたことは一度もなかったけれど、しかし、四季に会った日には、それを強く認識させられることになった。  彼女が誇るあらゆる能力が、四季には遠く及ばない。どんな面においても、四季にはかなわない。かつて、こういった目には遭ったことがなかった、といえる。どこにも勝ち目のない勝負、まるで、逃げ道のない袋小路。  どうすることもできないジレンマを感じた。  あるいは、明確な挫折《ざせつ》感。  それは、彼女の記憶にはない最初の対面の日から、既に決定していたシナリオなのだ。そのとき、幼かった萌絵は、真賀田四季を見て泣いたという。きっと、恐ろしい相手のパワーを感じたためだろう。自分の人生における最大の障害になる、そう直感したにちがいない。  そんな相手なのだ、真賀田四季は。  そうならば、相手にならなければ良い。放っておけば良い。関わらなければ良い。圧倒的なパワーの差は、どんなことをしても埋められないのだから、もはや逃げるのみ。どう考えても、それが唯一の正しい道だろう。  それができない理由が、犀川にある。  そう、そこが一番の問題なのだ。  四季は明らかに、犀川に関心を持っている。犀川の能力を彼女は知っているのだ。萌絵を相手にしたのは、単に犀川との関係における二次的な処理だった、と今になって想像できる。本来、自分など相手にもしてもらえない存在だ。それが客観的な分析、正しい認識……。  考えれば考えるほど憂鬱になる。  淋《さび》しくなる。  だから、ショックは尾を引いた。ちょっとした拍子に、四季のことが頭に過《よ》ぎると、その都度《つど》、胸が圧迫され、呼吸に抵抗を感じる。水圧にも似た全方向の力が躰中に作用している、と思わずにはいられない。  それに、このまま終わるとは思えなかった。  いつか、四季は犀川を連れにくるのではないか。  そんな心配が、少しずつ大きくなって、彼女はますます、彼から離れられなくなってしまった。  以前よりも、ずっと犀川の近くにいる時間が多くなった。  そんな生活が続いている。  ただ……、  実に不思議なことだったけれど、  今のこの中途半端な状況、矛盾した不安定な状態が、この頃では逆に、自分の新たな幸せだと感じるようにもなった。これは劇的な変化といえる。気がついたのは、つい先月くらいのことだった。  ある日の夜、研究室の自分のデスクで、液晶画面にスクロールするプログラムリストを眺めているうちに、ふと、窓の方へ視線が移動した。外は既に暗く、冷房の室外機が近くで唸《うな》っている。そして、ガラスに映った自分の顔にピントが合った。頬杖をして、目を細めて、こちらを見ている女性。  髪が長くなった。  これが、私。  なんと穏やかな顔だろう。  そう思った。  毎日、研究に没頭している。  いつも目の前の課題に集中できる。  両親が死んで以来、これほどに安定した時間が長く続いたことは、かつて一度もなかったのではないか。今の自分はとても落ち着いている、と感じることができた。もしかして、これが大人になったということだろうか。単に、歳をとって鈍感になっただけかもしれないけれど……。  このまま何もなければ、良いのに。  そう考えることが、恐いくらいだった。  本当に、このままだったら、良いのに。  溜息をつき、目を少しだけ閉じて。  祈った。  犀川先生も、同じだったら良いのに……。  願った。  祈り願うことが、具体的に現実にどう影響するのか、彼女は考える。自分に対して、それは決意という一種の力になるだろうか。もしかしたら、なるかもしれない、と思った。      2  院生室のドアがノックされた。そのドアをノックするのは、教官でも、また院生でもない。身内の人間は誰もノックなどせず、いきなりドアを開けて入ってくるからだ。したがって、ノックがあると、部外者が訪ねてきたとわかる。多くの場合は、書籍のセールスか、募金あるいは保険の勧誘だ。しかし、この日は、萌絵には約束があった。  ドアが開き、儀同世津子《ぎどうせつこ》の顔が覗《のぞ》く。萌絵を見つけて、彼女は目を一度大きく見開いてから、にっこりと微笑んだ。  時刻はまもなく午後七時。窓の外はすっかり暗い。院生室には、四つのデスクがあるが、今は萌絵しかいなかった。 「やっ」儀同世津子が片手で指の運動をさせながら部屋の中に入ってきた。「もしかして、私のために待っててくれた?」 「いいえ、だいたい、この時間はいつもまだいます」 「真面目なんだ。他の人は? もう帰っちゃったの?」 「いえ、バイトにいったり、食事にいったり、そのうち戻ってきます」 「創平君、いないみたいだったけれど」世津子はドアの方へ指を向けて言った。彼女は犀川のことを創平君と呼ぶのである。 「ええ、今夜は確か、学外で委員会だったと思います」 「可哀想にね」世津子は目を細める。 「本当に……」萌絵も頷いた。二人で同時に犀川に同情した。「えっと、どこかでお食事をします? それとも……」 「貴女はどちらが良い?」 「どちらでも」 「それじゃあ、食べにいきましょう」  二人は、暗い研究棟の通路へ出た。 「どうしてさ、ここってこんなに暗いの?」階段を下りるとき、世津子がきいた。 「慣れれば、どうってことないですよ」 「一人で上がってくると、なんか、恐いよねぇ」 「知らない人が入ってこなくて、一種のプロテクトになっているかも」  世津子は鼻から息をもらして笑った。  駐車場で白いスポーツカーに二人は乗り込んだ。キャンパスから出て、メインストリートを南下する。信号を三つほど通り過ぎたところで、ファミリィ・レストランの駐車場へ入った。 「ここ?」助手席の世津子がきいた。 「ええ」萌絵は頷く。「あれ? 駄目ですか?」 「いえいえ、別に、私はかまわないよ。だけど、貴女はこんな店で良いわけ? もっと高級なレストランとか、行かなくても……」 「ここが一番近いから」萌絵は応える。 「ふうん」世津子は口をへの字にして肩を竦《すく》めた。「なんか、やっぱり院生ともなると、違うわね。染まってくるっていうの? そんな感じに誰でもなるんだ」 「そうですか?」  店に入り、シートに着くと、いかにも大学生だという若い男の店員がオーダを取りにきた。彼が戻っていくと、世津子は萌絵の方に顔を寄せた。 「あの子なんかも、もう貴女よりも若いのよぅ」 「ええ」萌絵は頷く。「それがどうかしましたか?」 「なんかねぇ、誰を見ても、あぁあ、この人も、私よりも若いんだって思うようになるのぉ。そういうこと……、ああ」世津子は溜息をついた。「子供が大きくなると、なんていうの、もう人生一回は終わったみたいな気がするんだなぁ。もう私の人生は終盤でさ、子供の人生だけしか残ってない、それしか頭にないっていうか……」 「そうなんですか?」萌絵は首を傾《かし》げる。 「ていうほどでもないけどねぇ」世津子は人工的な笑顔をつくった。「さぁてと……、そんな話をしにきたんじゃなくって」 「ええ、どんなお話ですか? 今日は、お仕事で?」 「うん、まあね、半分は仕事だよ」世津子は頷く。「実は、真賀田四季のことなんだけれど」 「え?」萌絵は一瞬息を止める。その名前には、どうしても過剰に反応してしまうのだ。 「ちょっとねぇ、いろいろ調べているんだ、私。なんか気になって。四年まえの妃真加島のあと、彼女、どうしているんだろうって……。うん、やっぱり、曲がりなりにもね、私たち、あのとき一応事件の現場にいたわけだし、ここは一つ、腰を落ち着けて、ちゃんとした記事を書いてみようって思うの。誰かから頼まれたっていうわけじゃないのよ。あくまでも自主的に」  萌絵は無言で頷いた。  世津子は犀川から何も聞いていないのだろうか。どこまで知っているのだろう。 「そこで……、まず、手始めに、西之園さん、貴女から」世津子は片手を返して微笑んだ。「お話を聞かせてほしいの」 「どんな?」萌絵は無表情のままきいた。突《つ》っ慳貪《けんどん》な印象を与えたかもしれない。そう思って、萌絵は視線を逸《そ》らし、店内をぐるりと見回しながら呼吸を整えた。 「真賀田四季のことで、貴女だけが知っていること、何かあるんじゃない?」 「どうしてですか?」 「なんとなく」世津子は上目遣《うわめづか》いに萌絵を見据える。「うん、つまりね、創平君がキーなんじゃないかって、そう思えてきちゃったの」 「犀川先生が? 何故です?」 「妃真加島のときが、そうだった」世津子は話した。「考えてみれば、彼、あそこでは部外者だったはずでしょう? それなのに、真賀田四季は、何故か、最初から創平君を相手にしていたみたいに見えた。少なくとも、私には、そう思えたわ。もしかしたら、彼を島へ呼んだのかもしれないって……。あのときさ、何故、あそこへゼミ旅行にいくことにしたの?」 「私がいけなかったんです。私が、真賀田博士に会いにいって、それで、とにかく、犀川先生は真賀田博士のことになると、目の色が変わったみたいにご興味を示されて、だから、なんとなく、その、先生が喜ばれるのではって思って……」 「うん、それはわからないでもないな、あの頃の貴女、そんな感じだった」 「今でも、変わりません」 「へえ……」世津子は眉《まゆ》を上げる。「何か知っているでしょう?」 「いいえ」萌絵は首をふった。「私よりも、犀川先生にきかれた方が、ええ、きっと的確だと思います。もしかしたら……」  萌絵はそこで目を瞑って考える。 「もしかしたら、何?」世津子の声。  数々の情景が頭の中でスキャンされた。  過去のこと、そして未来のこと、現実のこと、そして想像したこと。  急に、泣きたくなる。  萌絵は密《ひそ》かに深呼吸をして、その感情を慌《あわ》てて遮断した。目を開き、世津子の顔を見つめる。 「どうしたの?」世津子は首を傾げ、誘うように微笑んだ。「創平君のことで、何か心配があるのね?」 「先生は、もしかしたら、真賀田博士と今でも連絡を取り合っているかもしれません」萌絵は言葉にした。言葉にすると、残酷さはますます際立《きわだ》った。  そんなことは嘘だ。  絶対に信じたくない。  でも……、何故か、そう思えてしまう。 「何か、それらしいことがあった?」世津子も真剣な表情になった。 「いいえ、何も」萌絵は無表情のまま首をふった。少しでも表情を変えれば、プロテクトが崩れてしまいそうだった。「単なる私の想像です」 「どうして、そう思うの?」 「真賀田博士は、犀川先生に興味があるようでした。たぶん、先生と議論がしたいのだと思います」 「議論?」 「いえ、それは違う」萌絵は息を吸った。「お話がしたい、という意味です。そんな感じでした」 「貴女だって、そうだわ」世津子は微笑んだ。「私から観察できる状況は、同じよ」 「あぁ……」萌絵は世津子の指摘に少し驚いた。「ええ、そうですね」 「つまり、もしかしたら、真賀田四季は、創平君のことが好きなのかもしれない、そう言いたいのね」 「言いたくありません」萌絵はすぐに首をふる。「いえ、私の感情についてお話ししているのではなくて……」 「そう、客観的に……」 「客観的に見て、とにかく、真賀田博士は、犀川先生に何らかのアプローチをしてきただろう、と私は思います。そして、犀川先生は……」 「それを受け入れている、と?」世津子が言った。彼女の表情には、もう微笑みは残っていなかった。  受け入れている?  その言葉のニュアンスには、とても許容できない響きが感じられた。萌絵はまた目を瞑る。首を横に強くふりたかった。そうすることで、それが振り払えるのならば、どれだけでもしただろう。しかし、自分の感情が問題なのではない。次元が違う。現実を正確に把握《はあく》することが重要だ。 「彼女は犯罪者なのよ」世津子は言った。「警察が彼女の行方を追っているわけでしょう? もし、真賀田博士と連絡を取り合っているとしたら、どうして、創平君はそれを警察に知らせないの? それとも、私や貴女に話さないだけで、彼、警察に通報している、ということは……」 「たぶん、そんなことはなさらないと思います」 「どうして?」 「警察や、社会のことよりも、いえ、たぶん、先生ご自身よりも、真賀田博士の方が重要だと、お考えになっているからです」 「重要って?」世津子は首を捻《ひね》る。 「ええ」萌絵は頷いた。それから、深呼吸をするように溜息が出た。「駄目です。やっぱり、犀川先生から直接お聞きになった方が良いわ。私の説明じゃあ、全然わからないと思います」 「そうね……、わからない」世津子は口もとを緩《ゆる》め、少し間をおいてからにっこりと微笑んだ。目が三日月形になった。「だけど、うん、ちょっとびっくりだよ。貴女が真賀田博士のことを、そういうふうに見ているんだってことがね」 「私、どういうふうに見ていますか?」 「怒らないでよ」 「うーん」萌絵も少しだけ微笑むことができた。「もう怒っているかも」 「私の意見ではね、貴女の心配は、取り越し苦労だと思う」世津子は諭《さと》すような口調だった。「創平君を取られてしまう、と考えているのでしょう? 彼なら大丈夫、そんな軽はずみなことをするような人じゃないわ」 「いえ、真賀田博士に対する評価が、普通の人とは違うんです。先生は、私たちよりもずっと、真賀田四季という才能を評価しています。ずっとずっと彼女を理解しているんです。それに、きっと、その評価は正しいと思います。私たちには、それが素直に受け入れられないだけなんです」 「いえ、それはわかるの。でもね、正しく理解して、充分に評価することと、愛情は、また別ものでしょう?」 「そうでしょうか?」萌絵は世津子を見据える。 「そりゃ違うわよぅ」 「私には、その区別ができません」 「どうして?」世津子は白い歯を見せて笑った。「評価っていうのは、たとえば、フィギュアスケートの審査員が、演技を採点するみたいなものだよ。素晴らしい演技ならば、十点満点をつけるでしょう? だけど、それは明らかに愛情ではないわ」 「十点満点を越えるような、とんでもない演技を見せられたら、そして、それがその審査員だけにしか理解できないような素晴らしいものだとしたら」萌絵は話した。「フィギュアスケートの歴史も、あるいはスポーツの歴史も、すべてを覆《くつがえ》すような演技で、将来にわたっても、もう二度とこんな才能は出現しない、と感じられるような圧倒的なものだったら……、どうですか? 審査員などしている場合ですか? すべてを擲《なげう》ってでも、その才能に憧れ、その才能に接しよう、と考えるのが普通ではありませんか?」 「普通じゃないわ」世津子は首をゆっくりと横にふる。 「犀川先生は、普通ですか?」 「まぁ、そう言われれば……、確かに……」 「愛情なんて、どこからだって芽生《めば》えます。何かが擦《こす》れたときに発生する摩擦熱みたいなものです」 「摩擦熱? 愛情が?」世津子は目を見開く。「面白いことを言うわね。うん、とにかく、貴女の考えはわかった。それが普通だなんて、私には思えないけれど、確かに、創平君ならって気もしないではないなぁ。あ、そうだ、西之園さんだって近いかもよ」彼女は腕組みをする。「貴女が、創平君を好きになったこと自体が、普通じゃないもの」 「どうしてですか?」 「周りを見てごらんなさいよ。誰か、創平君にアタックしている子、いる?」 「アタックって?」 「ま、いいわ」世津子は斜め上方へ視線を向け、口を歪《ゆが》ませる。「なるほどねぇ」 「何が、なるほどなんですか?」  店員が飲みものを運んできた。名称を言いながら、テーブルにグラスを置き、頭を下げてから戻っていく。その間、二人は黙っていた。 「でも、少し気が楽になりました」萌絵は話す。「儀同さんに聞いてもらえて、良かった。誰にも、話せないことだから」 「なんで? 創平君に言いなさいよ」 「言えません、そんな……」 「どうしてよ? それは、貴女の認識が間違っている。こういうことはねぇ、なんでも包み隠さず、相手に気持ちを打ち明けるべきだと思うな」  そうだろうか……。  萌絵はグラスのカラフルな液体を見つめながら、考えた。  確かに、犀川も同じようなことを言ったことがある。  気持ちなんて伝わらない、言葉を尽くして説明しなければ、コミュニケーションは成り立たない、と。けれど、気持ちをストレートに伝えることは困難だ。それは本来、言葉とは独立したものであって、言葉にしたことによって形を変えてしまうからだ。それに、たとえ近い形で伝達できたとしても、自分の気持ちをありのまま相手に見られてしまうことは耐えられない。それはプライドといった類のレジスタンスではなく、むしろ、自分のありのままを犀川に見られてしまうことで、彼から見限られてしまうのではないか、という危惧だ。  そう、それほど、みっともない姿勢だと自分でも思える。そう考えると、ますます気持ちが重くなった。 「私がきくよりも、貴女がきいた方が良い」世津子はストローの蛇腹《じゃばら》を指でもてあそびながら言った。「そういうことって、チャンスだと思わなきゃだと思うよ」 「チャンス?」萌絵は言葉を繰り返した。  当然ながら、そんなふうに考えたことは一度だってない。 「貴女ってさぁ、会うたびに大人しくなっていくみたい」世津子は微笑んだ。「最初は、活発な人だと思った。ずばずばとものを言う人だなって思ったよ。初めて会った頃は……」 「ええ」萌絵は頷いた。「それは、本来の私ではありません」 「普通さ、猫を被《かぶ》るっていうじゃない? 反対よねぇ、貴女の場合。私なんか、どっちかっていうと、猫を被っている方だと思う。わりと、ほら、おっとりして、ぼうっとしているように見えるでしょう?」 「いえ、そんな」 「でもね、本来の世津子さんは、わりかし、こう、きっちりしていて、果敢《かかん》なところがあって」 「ああ、ええ」萌絵は頷きながら、吹き出した。 「どうして、笑うの?」 「いいえ。そのとおりだと思います」 「でしょう?」世津子は、顔を斜めに向けて、片方の目を瞑った。      3  儀同世津子を地下鉄の駅まで送ってから、萌絵は研究室に戻った。世津子は、今夜は那古野《なごの》のホテルに宿泊する、これから取材で人と会う、と話していた。 「創平君によろしくね」助手席のドアを閉めるとき、彼女は最後にそう言って片手を振った。  儀同世津子は、犀川の妹である。年齢は彼と七歳違い。彼女が兄のことを「創平君」と呼ぶのは、子供の頃には、お互い別々に生活していたためだという。初めて彼に会ったのは、世津子が中学生のときだったらしい。そういった話も、つい最近聞いたばかりだ。犀川は自分の家庭のことをほとんど話さない。こちらが十をきいて、ようやく一を教えてくれる、そんな感じなのだ。彼のことならば何でも良いから、もっと知りたい。けれど、しつこく尋ねるのも自分の中に抵抗があった。  院生室でプログラムを走らせていると、通路でドアの鍵を開ける音が聞こえた。その音に萌絵は敏感になっている。犀川が帰ってきたのだ。昨年までは、犀川の講座の院生室はフロアが違っていた。彼女たちが卒論生だった頃に使っていたこの部屋が、今年から、そのまま院生室になったため、こうして、足音や笑い声が聞こえる距離にいつもいられる。この条件は彼女には非常に都合が良かった。  思わず顔を上げると、向かいのデスクで牧野洋子《まきのようこ》がこちらを見ていた。なんとなく、彼女に見透《みす》かされている気がして、萌絵は意味もなく頬を膨《ふく》らます。洋子も目をぐるりと回して、意味のないサインを送り返してきた。  すぐにも犀川の部屋へ行きたかったが、彼も戻ったばかりで、しばらく落ち着かないだろう。委員会の資料に穴を開けて、ファイルに綴《と》じ、キャビネットに仕舞う。それから、パソコンでメールを読む。三分くらいしたら、行ってみよう。コーヒーが飲みたくなる頃だ。そう考えながら画面をぼんやりと眺めていたら、外でドアが開く音に続いて、院生室のドアがノックもされずに開いた。萌絵の心臓が大きく一度打つ。  しかし、入ってきたのは、犀川ではなく国枝桃子《くにえだももこ》だった。彼女は犀川の講座の助手、萌絵や洋子は事実上、彼女に直接研究指導を受けている。直属の上司、といえば近いかもしれない。院生室は奥行きが深く、ドアから、窓際の萌絵たちのデスクまで五メートル以上ある。国枝は、憮然《ぶぜん》とした表情で真っ直ぐに洋子のところまで来て、持っていたA4の書類を彼女のデスクに置いた。ソフトな優しい置き方ではない。 「あ、どうもありがとうございます」洋子は慌てて立ち上がり頭を下げた。  萌絵も立ち上がり、洋子のデスクを覗き込む。どうやら論文の下書きを国枝に見てもらったようだ。 「それ、何?」萌絵は尋ねる。 「何って、支部研の論文に決まってるじゃん」洋子が横目でこちらを見て答えた。彼女はそれから表情を切り換え、長身の国枝を見上げてきいた。「先生、どうですか? いけそうですか?」 「まあ、なんとかならないこともない」国枝は素《そ》っ気《け》ない、いつもの口調である。 「支部研の締切って、まだ一ヵ月もさきでしょう?」萌絵は言う。「私なんか、これからまだプログラムを直そうとしているところなのに」 「犀川先生、帰ってきたよ」国枝は窓際の萌絵に視線を移す。 「え? あのぉ、どうして、その……」萌絵は首を傾げた。「顔に書いてあるわけはないし」 「プログラムが直ったところで、一度二人だけでゼミをしよう」国枝は言う。もう話が変わっていた。 「はい、お願いします」 「いつくらい?」 「明日の夕方には」 「じゃあ、明日の七時から」 「わかりました」 「それ、直したら、もう一度、私に」国枝はメガネに片手をやりながら、向きを変えて洋子に言った。「まだ、犀川先生に見せちゃ駄目だよ」 「はい」洋子が頷く。彼女は既に椅子に座っていた。  国枝はドアへ戻り、部屋から出ていった。彼女が通ると、しばらくその軌跡が真空になっているような気がする。迂闊《うかつ》に近づくと鎌鼬《かまいたち》に遭《あ》いそうな、そんな静謐《せいひつ》さが残留した。国枝は機嫌が悪いわけではない。これは彼女のデフォルト、平生《へいぜい》からこんな具合なのだ。機嫌というものが彼女にはない。感情の起伏はほとんど外部からは観察できなかった。 「早いよぅ、いくらなんでも」萌絵は洋子に言った。 「私には私の時間ってのがあるのだ。あんたとはね、進み方が違うから」洋子は口をとがらせる。  萌絵はまだ立っていた。洋子は、国枝が赤を入れた原稿に視線を落としたが、しばらくして、再び顔を上げて萌絵を見た。 「何をしているの? 犀川先生んとこ、さっさと行ってきたら?」 「あ、うん」萌絵は頷いた。 「なんで、すぐ行かないわけ?」 「私には私の時間があるの」  洋子はまたぐるりと目を回した。ケーキ屋の人形に似ている。  萌絵は息を吐き、両手を一度握り締めてから歩きだした。ドアを開けて、通路を横断し、向かいの部屋のドアの前に立ってノックした。何度やっても、この手順は緊張する。どんどんその度合いが強くなっているような気もする。  聞き慣れた声が室内から聞こえ、彼女はドアを開けた。 「失礼します。先生、ちょっと、よろしいですか?」 「ああ、ちょうどコーヒーを飲もうと思っていたところ」 「あ、じゃあ、淹《い》れます」萌絵はドアを閉め、キャビネットの方へ向かう。計算どおりだ。「委員会でしたか? 先生、お食事がまだじゃありません?」 「ああ、そういえばそうだね」 「躰に良くないと思います」振り返って彼女は言う。 「どうして?」 「え? それは、だって、うーん、食べないと、いけないんじゃありませんか? 私も、諏訪野《すわの》によく言われます」 「食べなくて、具合が悪くなったことが、ある?」犀川はデスクの向こう側で椅子に深く腰掛け、片手に煙草を持っていた。 「いえ、ありません。そのうち、お腹が減るから、何か食べますけれど」 「うん」犀川は頷き、煙を吐く。  しばらく、犀川の次の言葉を待っていたが、萌絵は諦めて、コーヒーメーカのセットをする。スイッチを入れてから、犀川のデスクの横にある椅子に腰掛けた。 「先生、あの、真面目なお話があるんです」  犀川は口を斜めにした。いつもは不真面目な話なの、とは言わなかった。 「コーヒーが入ってからにしましょうか?」 「いや、今すぐに聞くよ」 「今日、夕方なんですけれど、儀同さんに会いました。お仕事で、こちらへいらっしゃってるんです。先生に、よろしくお伝えするように、言われました」 「それが真面目な話?」 「いいえ。儀同さん、お仕事とは別に、真賀田四季の調査をしようとなさっていました。それで、私に幾つか質問を……」  萌絵は、そこで言葉を切り、犀川の顔を窺《うかが》ったが、動いているのは煙草の煙だけで、犀川の表情は微動だにしなかった。 「今、真賀田博士は、どこにいるんでしょう? 私たちは、昨年の暮れに彼女に会いました」 「あれは、会ったっていうのかな」犀川は呟くように言う。 「少なくとも、真賀田博士が、どこかに存在していること、つまり、生きていることは確認されたと思います。私や先生と話をしました。情報のやり取りをしたのです」 「君らしくない、持って回った言い方だね」 「私、そのことは、儀同さんには話しませんでしたけれど」 「君の自由だ」 「先生が、もしも、その……」言葉を口から出すのに力が必要だった。「真賀田博士と、それ以後、どこかでお会いになったり、それとも、電話やメールのやり取りをなさっていても、それは、誰にも秘密のことにしておける、やっぱり、それが先生の自由でしょうか?」  犀川は、少しだけ目を細め、ゆっくりと煙を吐いた。  じっと萌絵を見据え、それから視線を逸らして、萌絵の背後の壁を捉えた。彼女は振り返って、コーヒーメーカを見た。ガラスが湯気で曇っていたが、まだ出来上がってはいない。  前を向き、再び彼を見つめる。膝の上で、彼女の両手が無を掴もうとしていた。 「君の質問に対する返答は」犀川は言った。「イエスだ」  萌絵は息を止めて頷いた。  視線を固定する、表情を固着する、その静止のために、躰が熱を帯びる。何を考えたら良いのか、それを探している自分を、別の自分が見ている。何を考えてはいけないのか、それを忘れようとしている自分もいた。 「しかし、君に対して、そのことで隠しごとをしようとは思わない。嘘もつきたくない」犀川は煙草を灰皿で揉《も》み消した。「黙っていたのは、君には良くない影響を与えると思ったからだ」 「話して下さい。私なら、ええ、大丈夫です」 「君は彼女のことになると、必要以上に過敏になる」 「それは、犀川先生だって、そうです」 「そう」犀川は無表情のまま頷いた。「そのとおりだ。僕たちの年代はね、みんな真賀田博士の影響を受けている」 「そういう問題ではありません。もっと個人的な……」 「では、君はどうして、過敏になっているのかな?」 「それは」萌絵は目を瞑った。後方でコーヒーメーカの蒸気の音がした。「犀川先生のせいです」  こんな言い方しかできないのか、という罵倒《ばとう》が、萌絵の頭の中で響く。 「実は、長崎から帰ったあと、一度だけ、僕は真賀田博士に会った」 「え、本当ですか?」腰を浮かせるほど、萌絵は驚いた。「いつ? どこで? どんなふうに?」 「少し話をしただけだ。ものの五分、いや、もっと短かったと思う」 「向こうから、会いにきたの? 呼び出されたの?」 「いや、呼ばれてはいない」犀川は首をふった。「僕の方から会いにいった。会えたのは、しかし、偶然に近いような幸運というか、いや……、幸運というのは、まずいよなあ」 「あぁ」萌絵は声を出して溜息をつく。  握り締めた手が、震えているようだった。  犀川を睨んだまま、唇を噛む。  思いついた言葉は、悔しい、憎らしい、そして恨《うら》めしい。  頭に血が上るのを、どうにかコントロールして、冷静さを維持する。氷の海に浮かんでいる潜水艦みたいな冷静さが欲しかった。 「それだけだ」犀川は、ポケットから新しい煙草を取り出した。「コーヒーが入ったよ、西之園君」  飲みたかったら自分で取りにいけば、という言葉が思い浮かんだけれど、彼女は聞こえないように小さく舌打ちをして、興奮と憤慨のエネルギィを利用して立ち上がった。      4  儀同世津子はホテルのラウンジへ約束の時刻に出向いた。ロビィのすぐ横にあるオープンな店で、幸いテーブルは空《す》いている。入口に立って店内を見回したが、どの席もカップルばかり、それらしい人物は見当たらない。ウェイタが近づいてきたので、とりあえず中で待とうか、と思ったとき、後ろから声をかけられた。 「儀同さんですか?」  振り返ると、長身の男が立っている。年齢は五十前後か。顎髭《あごひげ》を蓄《たくわ》え、茶色っぽいレンズのメガネをかけていた。 「はい、あ、どうも、はじめまして」世津子は頭を下げる。  ウェイタは二人を窓際のテーブルまで案内した。名刺を交換してから、軟らかい大きな椅子に腰掛けた。  男は名前を椙田泰男《すぎたやすお》という。名刺にはT&Aトレーディングとあるが、肩書きは書かれていない。世津子が前のめりに座っているのと対照的に、椙田は椅子の背にもたれ、脚を組み、ゆったりとした姿勢だった。 「どうも、よろしくお願いします。ご連絡いただき、感謝しております」世津子は低姿勢に切り出した。  しかし、そこへウェイタが注文を取りにくる。男はコーヒーを、世津子は紅茶を頼んだ。  ラウンジは一様に暗い。テーブルの上でキャンドルが光っているだけだ。椙田の視線はよくわからなかったが、じっと彼女を観察しているように動かない。メールの印象では、もう少し年輩の男性かと想像していた。こうして会ってみると、思ったよりも若い。そして魅力的だった。着ているものも高そうだし、センスも悪くない。そういった条件が逆に世津子には威圧感となった。やりにくい相手だな、と思う。 「こちらへは、いついらっしゃったのですか?」彼女は尋ねた。  メールを交換しているときは、彼はずっと海外だったのだ。それも、いつも別の場所。南米かヨーロッパが多かった。 「昨日です」 「那古野にも、お仕事で?」 「ええ、まあ」表情を変えずに、首を少しだけ動かす。  仕草《しぐさ》の一つ一つがどうも対女性用に演出されているような気がした。でも、わざとらしくはない。役者になったら良いのに、と思えるくらいだ。  椙田とは、三ヵ月ほどまえからメールを交換している。最初にメールを送ってきたのは、椙田の方だった。世津子は自分のホームページに簡単な日記や、エッセィふうの文章を書いていたが、椙田はそれを読んで、メールをくれた。海外在住の年輩の男性、という多少の珍しさもあって、最初から印象に残ったし、彼女もメールのリプライを丁寧に書いた。 「あの、真賀田四季博士のことで、何かご存じだというお話でしたけれど……」世津子は話を切り出した。 「いや、知っているというほどのことではありません。以前に、一度会ったことがある、というくらいです」 「それは、いつのことですか?」 「もう、ずいぶん昔ですね。えっと、二十年くらいになるかなぁ」 「そうですか。それならば、実は私も、四年まえに一度、ちらりとですけれど、ご本人を見かけているんですよ。あとであの人だった、とわかっただけで、そのときは全然気づきませんでしたけれど」 「そちらの方が貴重な情報では?」 「え、どうしてですか?」 「最近の彼女が、どんな容姿になっているのか、それを知っている者は少ないでしょう」椙田は上着のポケットから、煙草を取り出した。「あの、吸ってもかまいませんか?」 「ええ、どうぞ」  彼は大きなライタの炎で、くわえた煙草の先に火をつける。マジシャンのような指の動きだった。世津子は彼の様子を観察し、それから、バッグから手帳を取り出した。メモをする必要があるかもしれない、と考えたからだ。 「実は、僕がこうして日本に来たのも、ある人を捜しているからなんです」椙田はそこで言葉を切り、煙草を吸うと、顔を横に向けて煙を細く吐き出した。「各務《かがみ》という名の女性なのですが、僕と同じくらいの歳で、数年まえまで、真賀田四季博士と一緒に仕事をしていました。かなり、長いつき合いだったはずです。その彼女が一年ほどまえから行方がわからなくて、探しているんですよ。想像ですが、真賀田博士の近くにいる可能性が高いと……。だから、真賀田博士の居場所がもしわかれば、彼女も見つかるんじゃないかって」 「各務さん? 各務なんておっしゃるのですか?」 「各務|亜樹良《あきら》です」 「え?」世津子は驚いた。その名前を知っていたからだ。「各務さんって、確かルポライタか何かの?」 「ええ、そうです」 「最近は聞きませんけれど、以前は、よく耳にしました」世津子は話す。「何冊か本を書かれていますよね?」 「ええ」 「女性なのですか? もっとベテランの男性かと思っていましたけれど」 「そう、世間では、そう認識されていますね。というか、プロフィールなんかにも、実はそう書かれているので、当然なんですが」 「あ、では嘘のプロフィールが?」 「そうです」 「その各務さんと、真賀田博士の関係については、椙田さん、どうしてご存じなのですか?」 「各務さんから聞いたんです」椙田は簡単に答える。「三年ほど、海外で一緒に暮らしていました。つまり、その間は少なくとも、彼女、仕事をしていなかった。でも、やっぱり古巣へ戻っていった、というか、僕には何も言わずに、出ていってしまったんです」  なるほど、と世津子は思う。各務亜樹良と椙田の関係がわかった。真賀田四季に興味があるのではなく、逃げられた女を追っている、その女が、以前に真賀田四季と仕事上で関係があった。だから、真賀田四季の居場所をつきとめたい。ようするに、情報を提供するのではなく、その逆だ。彼は真賀田四季に関する情報を欲しがっている。世津子はその点で少し残念だった。しかし、見返りも期待せず自分から情報を提供したい、などという欲求は本来存在しないものだろう。 「ですから、できれば、情報を交換したいのです」椙田はジェントルな口調で話した。洗練された発声だ、と世津子は感じる。 「私も、もちろん探しているんです。でも、何もわかりません。日本にいるのかどうかさえ」 「昨年の暮れには、日本にいたのでは?」 「え? どうしてですか?」 「いや、ちょっとそんな噂を耳にしたものですから」 「日本のあるゲーム会社と関係があった、ということは事実です。それは私も確認しています。けれど、本人がどこにいたのかなんて、誰も知らないかもしれません。ネットワークの時代ですからね、地球上のどこにいても、たいていの仕事は可能です」 「地球の裏側にいると思ったら、すぐ隣にいた、なんてこともあるでしょうね」椙田は両手の指を合わせて多少|大袈裟《おおげさ》なジェスチャで言った。「MF社との関係も、おそらく続いているでしょう。あの才能を必要としている企業はいくらでもある。どこだって喜んで匿《かくま》うはずです。ほんの一部でさえ、彼女からもたらされる利潤は計り知れませんからね」 「二十年まえに、真賀田博士とお会いになったというのは、どこでですか? 実際にお話しになられたのですか?」 「ああ、ええ……。実は、この近くですよ。エヌエス・ランドという遊園地なのですが」 「え?」世津子は身を乗り出した。 「ああ、やっぱりご存じなのですね?」 「あ、あの……」世津子は顎を引き、相手の表情を慎重に窺った。自分の軽率な反応をカバーするために、呼吸を整える。「失礼ですが、どうして、私がそれを知っている、と思われたのですか?」 「お母上から、お聞きになったのでしょう?」組み合わせた両手を髭に当てて、椙田は微笑んだ。  世津子は一瞬、背中に寒気を感じる。  この男は、何者だ?  何故、自分の母親のことを知っている?  それを知ることができる範囲を想像した。母親のかつての同僚か、それとも友人か……。いずれにしても、ごく一般的な市民が、マスコミや噂話だけから知り得る情報ではけっしてない。  多少の危険を感じた。この男が自分に接近してきた意図を、もう一度よく考えた方が良いかもしれない。そもそも、ネット上でアプローチしてきた最初から、目的があったはずだ。少なくとも偶然ではない。 「申し訳ありません、どうもお話がよくわかりません。もしかして、母とお知り合いなのですか?」 「いえ、そうではありません」椙田は首をふった。「ただ、あのエヌエス・ランドの騒動のときは、祖父江《そぶえ》警部補が指揮をとっていたと、耳にしたものですから」 「いいえ……、どうして、私の母のことをご存じなのか、という意味です。ホームページには、旧姓は書いてありません。そのことを知っている人はごく少ないので」 「ええ、それは、わかりますよ」椙田はまた微笑んだ。「いえ、貴女のことを特に調べたわけではありません。大丈夫、ご心配なさらないように。そうではなくて、さきほども説明したように、僕は各務さんのことを調べています。その過程で、犀川さんや、貴女のことが出てきただけのことです」 「兄も、ですか?」 「貴女以上に、真賀田博士のことをご存じかもしれない。何か聞いていませんか?」 「いいえ、何も。その……、そういったことを人に話すようなタイプじゃないんです」 「うん、そうでしょうね」 「え? ご存じなのですか?」 「あ、いいえ」彼は煙草の煙を吐く。「誰にも話せるような内容ではありませんから」 「お話を戻したいのですが、椙田さんの持っている情報というのは、どんなものですか? それを伺いたいと思います。もちろん、情報を交換することには異存はありません」 「あの遊園地で、僕は真賀田博士に会って、話をしました。会ったのは、単なる偶然です。そのとき彼女は、外国人と話をしていました。ちょうど日本に来ていたロバート・スワニィという男です。これは、どこにも報道されていないことです」 「それが確かな情報だとして、どんな意味がありますか?」 「ロバート・スワニィは、ニューヨークに住んでいましたが、昨年、謎の失踪を遂げています。あちらでは、かなり話題になりました。なにしろ、ノーベル賞候補と言われた有名人です。ご存じでしたか?」 「そういえば、そんな事件がありましたね。ええ、その人のことをよく知らなかったので、あまり気にしていませんでしたけれど。それが、何か、真賀田四季と関連があるとおっしゃるのですね?」 「おそらく、スワニィと真賀田四季を関連づけているのは、日本では、今のところ僕だけでしょう」 「アメリカでは?」 「スワニィは、MF社から研究費の援助を受けていました。したがって、見抜ける人は、とっくに見抜いていると思います」 「えっと……、何を、見抜いていると?」  椙田はじっと彼女を見据えているようだったが、煙を吐き出すために横を向いた。答は返ってこない。  MF社は、世界一のソフトメーカだ。真賀田四季は、まだ十代の頃から、MF社と関係がある。それは周知のことだ。したがって、四季はアメリカのどこかに潜《ひそ》んでいて、今もMF社の仕事をしているだろう、という見方は一般的なものといって良い。ロバート・スワニィという人物については、世津子はまったく知らなかった。その名前を手帳にメモして、あとで調べてみようと思った。その学者の専門は何か、と尋ねたかったが、調べればわかることを質問することもない。見抜ける人間には見抜けるとは、真賀田四季とそのスワニィが何かを企《たくら》んでいる、という意味だろうか。 「ところで、どうして、日本なのですか? 真賀田四季は、アメリカにいる可能性が高いと思います。ですから、その、各務さんも、アメリカにいらっしゃるのでは?」 「いや、彼女は日本にいると思います」 「彼女って、各務さん?」世津子は、椙田が頷くのを見てから、次の質問をする。「どうして、そう思われるのですか?」 「理由はない。なんとなく、そんな気がするだけです」椙田はテーブルの灰皿に手を伸ばし、煙草を揉み消した。「日本じゃなかったら、僕を誘ったと思う」 「え、どういうこと?」 「あ、いや……」椙田は片手を広げて微笑んだ。  意味がわからない。日本以外だったら、彼を誘った? つまり、他の国ならば彼を誘うことができるのに、日本では、それができない、ということか。椙田が日本に戻りたくない、あるいは故郷が嫌いだということを気にして、黙って一人だけで帰国してしまった、という意味だろうか。 「どちらにしても、今、ここでどうなるものでもありません」椙田は言う。「何かわかったら、教えて下さい。僕もいろいろ調べてみます。できるだけ情報提供をしましょう」 「ええ、お願いいたします」世津子は頭を下げる。 「やっぱり、一度直接お会いしないと、こういうことって、お願いしにくいと思ったものですから」 「ええ、それはそうですね」 「それに、こんなことを言ったら、気持ちが悪いかもしれないけれど、なんというのか、一度、貴女を見たかった」  その言葉は、世津子には少し重かった。彼女は黙って、椙田の視線を受け止め、同時に確信した。やはり彼は、母のことを知っている。最初から、祖父江|七夏《ななか》の娘として、自分にアプローチしてきたのだ。 「いや」椙田はまた片手を広げた。「失言だったな。ええ、取り消します。本当に、そういったご心配は無用です。どうか信じていただきたい。単なる、好奇心ですよ。この歳になっても、若い女性には興味がある。ただそれだけのつまらない理由です」 「はい、それだけの意味に取らせていただきます」世津子は微笑まないように努力して、多少冷たい響きを込めて返事をする。最後のフォローの方が性差別だと思ったが、それは口にしないことにした。      5  犀川の部屋で、萌絵はコーヒーカップに口をつける。そろそろ飲める温度になった頃だと思ったからだ。そして、コーヒーと同じように、彼女の憤《いきどお》りも少しは醒《さ》めていた。きっと、目の前に犀川がいる、という現実のおかげだろう、と彼女は考えた。  犀川の説明によれば、真賀田四季は関東地方にいたという。彼が出向いたところに、偶然にも彼女は待っていた。彼がそこへ来ることを予測していた、と犀川は話す。抽象的な話だ。もちろん、それでは萌絵は納得がいかない。それがどこなのか、どんな場所なのか、どういった経緯で彼はそこへ行ったのか、を彼女は具体的に想像ができなかった。 「君に対して秘密にしようというつもりはない。でも、ある人に、これは言わない方が良いと判断した」犀川は無表情のまま説明を続ける。「君に話せば、それが自然に伝わってしまう。たとえ伝わらなくても、それを黙っていることで、君は不愉快な思いをするだけだ」 「わかりました」とりあえず彼女は頷いた。「では、今は聞かないことにします。真賀田博士と五分だけ、お話をなさったということですけれど、どんなお話だったのですか?」 「うーん、五分もなかったかもね。挨拶をしただけ」 「また会おうとか、もうお別れですねとか、何か具体的な内容を教えて下さい。たとえば、私のことを、真賀田博士は何か言っていませんでしたか?」 「いや、何も」 「あの、真賀田博士は、その、犀川先生のことが、好きなんです」萌絵は口にした。言ってしまってから、自分でも少し驚いた。ついに言葉になった。もう取り返しがつかない。 「根拠は?」犀川は煙草を取り出しながらきいた。 「わかります、それくらい」 「それで?」 「え? いえ……」萌絵はカップをデスクの上に戻す。それは犀川のデスクだ。今日は書類の量は少なかったので、カップを置く面積は充分にあった。「否定なさらないのですね?」 「主語は、僕じゃない、真賀田博士だ」 「そう思いませんか?」 「わからない。話を先へ進めて」 「それは……、別に自由です。ええ、それに、問題ではありません。それより、私にとって重要なことは、先生が……、犀川先生が」駄目だ、そこで息が一瞬できなくなる。彼女は震えた声を絞り出した。「それを、どう受け止めているか、ということ……」 「なかなか率直だね」彼はライタで煙草に火をつける。「ショックからは、立ち直ったかな?」 「あのぉ、そういう言い方って……」 「悪かった」犀川は煙を吐いた。「心配していたんだ。だから、それが言えるくらい元気になったことが、嬉しいよ」  犀川は彼女を見据えた。  彼女の喉《のど》で、次の言葉が消えてしまった。  まったく……、  明らかに腹立たしい、腹立たしかった、それなのに、その腹立たしさの理由はもうわからない。目の前で煙のように消えてしまった。萌絵は唇を噛み、それから勢い良く溜息をついた。 「このままだったら、良いのだけれど」彼女は呟く。 「このままというと?」 「もう……、真賀田博士が私たちの前に現れないようにってことです」 「たぶん、もう現れないと思うよ」犀川は視線を逸らし、煙を吐き出した。表情に変化はなかったものの、どこか淋しそうな感じに見えてしまう。萌絵の中で多少複雑な感情がアラームランプのように点滅していた。  何故そう思うのか、とききたかったけれど、声が出なかった。  犀川にはもう二度と、真賀田四季には会ってほしくない。  けれど、一方では、  二人の才能が引き合うことは、ごく自然に思える。  自分にだって、四季に惹《ひ》かれる部分が確かにあった。  四季という人間につき纏《まと》う危険性が、その無邪気で自然な感情を抑制しているのだ。素直に考えれば、会えないことは、辛いことかもしれない。  何故、こんなジレンマに陥《おちい》ってしまったのか。  何が悪いのか。  すべて、真賀田四季という天才が仕組んだことだとしたら、自分も、そしてもしかしたら犀川も、既に見捨てられている、見限られている、と考えることもできた。あるいは、そういう面で一種の淋しさを感じるのだろうか。 「君が彼女に対して抱いている感情は、僕のものと根本的には同じものだ」犀川は煙草を持った片手を軽く翻《ひるがえ》した。「彼女は、とにかく特別で、誰にも追いつけない。時間が違うと思うしかない。今、君が真賀田四季のことを具体的に考えないように、思考を遮蔽《しゃへい》しているのを見て、僕は自問した。自分もそうではなかったかってね」 「思考を遮蔽している?」萌絵は言葉を繰り返す。 「そうだ」彼は頷く。「そして、そのとおりだった。僕は、あの人のことを考えないようにしていたようだ。思考から遠ざけていた」 「いつからですか? 妃真加島のとき? それとも、長崎のときですか?」 「妃真加島のときだよ。あのときは、僕にとって、やっぱり大きなショックだったと思う。なるほど、それで、わざわざまたチャンスをくれた、ということだったんだね」 「え? 長崎の方が?」 「そう」犀川は頷く。目を細め、何かを考えている表情だ。「うーん、そうか、そういうことか」 「何がですか?」 「ちょっと考えてみる価値があるかもしれない」 「何を?」 「ああ……」犀川は煙草の煙を吐き出す。「そうか、久しぶりに面白い発見だったね、西之園君」 「何がですか?」 「ありがとう」 「えっと、先生?」 「ん? どうかした?」 「会話して下さい、私と」 「うん、ときどき、君って、わけのわからないことを言うよね」  萌絵は犀川を上目遣いに睨み、溜息をついた。 [#改ページ] 第2章 発散の手前の極解 [#ここから5字下げ] そこから、百歩ばかりはなれたところに、毛皮のテントが、入口をひらいて立っていましたが、その下に一人の病人がねていました。そのあたたかい血のなかには、まだ生命が流れていました。けれども、病人は死ななければなりませんでした。じぶんでもそう思っていましたし、まわりのものもみな、そう思っていました。それゆえ、その男の妻は、あとで死人のからだにさわらないでもいいように、手まわしよく、毛皮の縫いぐるみのなかに、夫をぬいこんでいました。 [#ここで字下げ終わり]      1  二年の歳月が過ぎた。西之園萌絵は修論を書き上げ、修士課程を無事に修了した。彼女はM2の夏にN大学大学院の博士課程を受験し合格していたので、いわゆるドクタ・コースの一年、D1となった。具体的には、研究環境は何も変わらないはずだった。  真賀田四季に関しては、萌絵が心配したようなことは幸い何一つ起こらなかった。したがって、彼女は研究に没頭することができた。以前のように県警の殺人課へ出入りするようなことも極端に回数が減り、この頃では、叔父に会いにいくときくらいになっていた。  ただ一つ、研究環境に大きな変化が生じた。萌絵がD1になった四月に、助手だった国枝が、県内の私立C大学へ転出したのである。同大学の建築学科で彼女は助教授に着任した。私学は学生数が多く、研究指導が大変である。国枝の講座にも、卒論生が十数名配属になった。そのうえ、国立大学のように各講座に助手がいるわけではない。国枝一人で卒論生を指導しなければならなくなった。このため、国枝と近い分野を研究テーマとしている萌絵が、アシスタント的な役目もあって、C大へ出向く機会が多くなり、N大よりもむしろC大の研究室が彼女の仕事場になってしまった。C大は那古野の北部の郊外にあって、車で通うと三十分ほど、ちょうど良いドライブコースといえる。週に一日はN大へ顔を出したが、その日に限って犀川がいない、ということも頻繁にあった。そんな生活が半年以上続いた頃、また大きな異変があった。  これは、本当に予想外のことで、  しかし、心の奥ではずっと期待していたことで、  そして、  とんでもない幸せといえるものだった。  どのような言葉にして表現すれば良いのか、数日、彼女は悩まなければならなかった。思考力は低下し、集中して考えることができなくなり、また逆に、ぼうっと考えてばかりの時間が経過し、現実を把握することができなくなって、生活に支障をきたし始めた。たとえば、食事中にぼんやりと窓の外を眺めて十分も動かなくなってしまったり、階段の途中で座り込み、そのまま目を瞑ってしまったり、車を運転しているときも、気がつくと、知らない道を走っていたり。これでは、さすがに危険だと自分でも認識して、何度も溜息をつき、頭を左右に振った。まるで犬が躰を振るうように。  最初に、誰に話そうか、それを決めるのに三日もかかった。結局、やはりこの種のことで一番相談がしにくそうで、実は絶対に外せない、関所のような存在の叔母、佐々木睦子《ささきむつこ》に打ち明けることを決意した。 「どうしたの? 貴女。顔が変よ」叔母は萌絵を見るなり言った。「犀川先生にプロポーズでもされたの?」  萌絵は黙って微笑んだ。 「何?」睦子は目を細める。「気持ち悪いわね、そんなトロ目して」 「トロメ?」 「何なのよ、何があったの? 早く言いなさいって」 「犀川先生から、これをいただいたの」萌絵は片手を差し出して、指を広げて見せる。 「まあ」睦子は目を見開いた。  十秒ほど沈黙。  萌絵は目を細め、自分の手を何度も捻り、それを全方向から眺めた。もう、ほとんどその形状が頭に入っている。図面を描けといわれれば描ける自信があった。 「で……、何て?」睦子は顎を引き、上目遣いで萌絵を睨みつける。 「え?」 「犀川先生、何ておっしゃったの?」 「プレゼントだよって」 「あまり高いものではありませんね」 「そんなこと、問題じゃありません」 「いえ、もとい。彼にしたら、なかなかの出費というべきかしら。ええ、そんなに安いものでもないわ」 「そうですよぉ。こんなの、なかなか買えませんよ。先生がこれを買いにいったという、その行為自体が重要なんです。もの凄《すご》い決心をされたに決まっています。それが嬉しいの」 「嬉しいでしょうね」 「幸せ」萌絵はにっこりと微笑んだ。「生きてて良かった」 「あのね、それは、まあそれとして」睦子は身を乗り出した。「これをいただく意味よ。貴女、何て言ったの?」 「ありがとう」 「そういう問題じゃないわ。そもそも、先生、何も言わなかったの?」 「ええ」 「それが変よね。どういうつもりなんでしょ?」 「どういうつもりって、決まっているじゃないですか」 「どう決まっているの?」 「これは、つまり、その……、うふふ」  思わず息がもれてしまう。 「しっかりしなさい」 「それは、つまり、その……、私のことを愛しているっていう、意味です」そう言って、萌絵は肩を竦めた。言葉が音になるだけで恥ずかしい。 「馬鹿じゃないの、貴女」睦子が十五センチほど仰《の》け反《ぞ》った。 「は?」 「そんなの、当たり前でしょう。男が女にプレゼントするっていうのは、そういう意味ですよ」 「でも、叔母様……」 「愛している、だけじゃ済まされないでしょう? そんな、愛するだけなら、誰だってできますよ。犬や猫でもしていることよ」 「ちょっと、それは言い過ぎなんじゃあ……」 「私だってね、殿方からのプレゼントなんて山のようにいただいたわよ。全員、私を愛してくれたのね」 「いつのお話ですか? それ」 「最近でもありますよ。さすがに数は減りましたけれどね」 「それって、問題じゃありませんか? いいんですか? そんな不謹慎なことで」 「何が不謹慎なのぉ? 私の問題じゃありませんよ。勝手に、向こうが好きになって、一方的に意思表示をしているだけのことでしょう?」 「ですから、そういう場合には、受け取ってはいけない、ということなんじゃないですか?」 「貴女、受け取ったのでしょう?」 「だってそれは、ええ、私の意思表示です。ああ、わからない。どうして、こんな話になるんですか?」 「違う違う。問題はね、犀川先生がどんなおつもりかってことなの。ちゃんときいてきなさいよ」 「何を?」 「これって、結婚しようよっていう意味かもよ」 「婚約指輪ね?」 「にしては、安物だけれど」 「叔母様!」 「そんなこともないわね、ええ、確かに、けっこう立派なものですよ」 「うーん、どうかなぁ。先生、何もおっしゃらないから……」萌絵は唸ったが、後半は息がもれてしまった。「でも、もしかして、そうかしら?」 「言うわよね、普通は、そういうことは、ちゃんと」 「そう……。だから、まだそこまでは……」 「何なの、そこまではって? じゃあ、どこまでなの? そんな中途半端な状態なわけ?」 「うーんと」 「ちょっと待ちなさい。これはね、違うと思う。やっぱり、犀川先生にしてみたら、最終判断だったと思うわ」 「うわぁ、やっぱりそうかしら!」 「つまり、それに気づいていない貴女が馬鹿よね」 「うーん、でも、しかたがないわ。わからないもの」 「鈍感だから」 「困ったなぁ」萌絵は微笑んだ。 「先生も先生よね。ああ、じれったいったらない」 「そう、先生にも責任があるわ」 「責任なんて取ってもらいなさいよ。ちゃんと言うことは言って」 「責任取って下さいって言うんですか?」 「そうよ」 「だってぇ……。困ったなぁ」 「もっともっと困りなさいよ。そんなにやにや笑っていないで。現状に満足しちゃ駄目」 「うん、そうだそうだ、そうかぁ……」萌絵は両手を組んで胸に当てる。お祈りのポーズに近い。「ああ、どうすれば良いかしら。叔母様、それとなく、先生にきいていただけない? あ、いえいえ、それは駄目だわ。叔母様にお願いしたら、拗《こじ》れるかも……、やっぱり、私が自分できかないと」 「勝手にしなさい」顎を上げ睦子は口をへの字にしたが、目は笑っていた。  というような劇的な展開があったのだ。  しかし、日々の生活に大きな変化はない。  相変わらず、犀川にはほとんど会えなかった。萌絵は研究室へ行き、自分のデスクに座り、コンピュータの画面を見ると、もう自分の置かれている現実の境界条件をすっかり忘れて、計算される数値の解釈だけに頭を使った。垣間《かいま》見える傾向から仮説を展開し、それを別の角度から確認し、修正する、という繰り返しだ。そして気がつくと、一日が終わっていた。  帰宅しても、目を開けていられないくらい疲れて、すぐに眠ってしまうことが多い。こうして、ミルクレープみたいに薄く積み重ねられ、自分の歴史は、自分の地層は、綺麗な縞模様になっていくのだ、と感じるのだった。  しかし、不満はない。  年が明け、論文を一つまとめた頃、少し余裕ができた。  儀同世津子が双子の娘を連れて那古野に来る、というメールをもらったとき、久しぶりにパーティを開こうと萌絵は考えた。      2  土曜日の夕方。  萌絵のマンションを訪れたのは、儀同世津子、佐々木睦子、西之園|捷輔《しょうすけ》、そして犀川創平の四人である。つまり、ビジタの犀川側は、兄と妹、ホストの西之園家側は、萌絵の叔母と叔父。おおよそ思いつくフルメンバといってもさしつかえない。  諏訪野がその日の朝から支度《したく》を始め、萌絵もそれを手伝った。明るいうちに佐々木睦子がやってきて、萌絵はキッチンから閉め出されてしまった。次に西之園捷輔がやってきて、リビングのソファに腰を落ち着けた。あっという間に諏訪野が飲みものを用意して運んだ。  約束の時刻の三十秒まえにチャイムが鳴る。玄関に萌絵が出迎えると、犀川と並んで儀同世津子が立っていた。 「あれ? お子様は?」萌絵は尋ねる。 「そんなん、連れてこられますか」世津子が眉を顰《ひそ》める。「いいの、気にしないで気にしないで、預けてきましたから」 「なぁんだ、会いたかった……」萌絵は言う。 「また今度ね。もっと大きくなってから」  世津子の双子の娘はもう三歳になるはず。さぞかし可愛らしい頃だろう、と萌絵は想像した。しかし、現実として、彼女は子供の扱いには慣れていない。ちゃんと話ができて、聞き分けが良くなる年頃まで待った方が確かに賢明だ、というのが正直なところだった。  螺旋《らせん》階段を上がり、最上階のリビングへ二人を案内する。捷輔叔父と睦子叔母が揃っていた。鉄壁のディフェンスに見えた。 「どうもはじめまして、儀同と申します」世津子が丁寧に頭を下げる。 「佐々木でございます」睦子がにこやかな表情でお辞儀をした。「不束《ふつつか》な姪ですが、どうかよろしくお願いいたします」 「どうして、私のことをお願いするんですか?」萌絵は言う。 「僕は、儀同さんには会っているんだ」捷輔がにこやかな顔で話した。「覚えておいでかな?」 「はい、もちろん。よく覚えております」世津子は頷く。 「犀川先生」睦子は犀川のところへ歩み寄り、彼の手を握った。「お久しぶりですねぇ」 「それほどでもないと思いますが」 「あらま、ずいぶんじゃございません? 萌絵から、聞きましたわよぉ。そこんところ、あとでじいっくり、おききいたしますからねぇ」 「はあ……」  しばらく、その場で歓談したが、途中で萌絵は席を立ち、通路へ出た。世津子が追いかけてきた。 「ねえねえ、西之園さん?」彼女は小声できく。「何なの? なんか異様な雰囲気じゃない? もしかしてもしかして、私が貴女の小姑《こじゅうと》になるっていうような、お話?」 「えっとぉ……」萌絵は目を大きくして答える。「うーん、正直なところ、状況は私にも正確に把握できなくて」 「でもさ、完全に、そんな感じだよ。特に、叔母様がそう。なんかさ、私を見る目が変」 「あ、そういう人なの。ごめんなさい、気にしないでね」 「気になるなぁ」世津子は口もとを緩める。「私、なんていうの、親戚っていうものに慣れていないの。叔母さんって、どうも苦手なのよね」 「どうしてですか?」 「うーん、小さい頃によく預けられたからかな。あまり可愛がってもらえなかったっていう覚えばかり。これ、一種のトラウマよね」  キッチンまで世津子はついてきた。そこにいた諏訪野に挨拶する。 「どうもお邪魔しております。諏訪野さんも、お元気そうですね」 「おかげさまで」諏訪野が深々と頭を下げた。「どうかごゆっくりとお楽しみいただければと存じます。ただ今、夕食の支度をしておりますので、今しばらくお待ちいただけますでしょうか」 「お手伝いしましょうか、何か」 「いえいえ、とんでもございません。そのようなことを、大事なお客様にしていただくようなことがあっては……」 「末代まで祟《たた》ります」萌絵が横で言った。「諏訪野、もう、食堂の方へ皆さんをご案内しましょうか?」 「はい、さようでございますね。ええ、そろそろ、それでもけっこうかと存じます」 「広いわよねぇ」世津子が辺りを見回す。「このキッチンだけで、うちのマンションくらいあるんじゃないかしら。こんな広いところで、貴女と諏訪野さんの二人だけなんて、ホンットもったいない。創平君にさ、ここへ来てもらったら? あ、それ、グッドアイデア。ここで新婚生活すれば良いのだ、うん。彼に話してあげようか?」 「いいえ、ちょっと、そんな……」萌絵は両手を広げる。 「なんで? じゃあ、どうするつもり? 彼のところは狭いし、どこかに新居を構えるわけ?」 「あの、そういうこと、まだ何も考えてません」 「考えなくちゃ」  萌絵が運んできたトレィに、新しい飲みものの用意を諏訪野が整えた。 「お嬢様、では、これは食堂の方へお願いいたします。捷輔様、睦子様は、私がご案内にまいりますので」そう言うと、諏訪野はキッチンから出ていった。  萌絵はトレィを両手に持ち、食堂の方へ向かう。世津子がまた後ろをついてくる。 「ねえねえ、新婚旅行はどこにするか、決めた?」      3  五人はテーブルに向き合って食事をした。犀川と萌絵、そして世津子の三人が並んで座り、犀川の向かい側に睦子、その隣が捷輔だった。ときどき、諏訪野がワゴンで料理を運んでくる。  話題は自然に、六年半まえの妃真加島の事件に及んだ。捷輔が切り出した話だった。 「そう、あれは本部長になったばかりの頃でね。ヘリコプタで乗り込んでいったんだ。もう六年にもなるのか」 「ホント、あのときは、なんて無謀なことを、と思いましたけれど……、今思うと、あれが効いたのかしら」睦子は萌絵を見て言った。 「何ですか? 効いたって」萌絵は尋ねる。 「犀川先生、それまでは、この子のことなんて、意識になかったでしょう?」 「意識にない、という意味がよくわかりませんが」犀川は無表情で答える。 「やめて下さいよ、変な方向へ話を持っていかないで、叔母様」 「そうかしら、殺人事件の話をする方が変じゃありません?」 「真賀田四季博士も、あれ以来、ずっと潜伏しているんですね」世津子が話す。「今どこにいるのか、まったく不明のままです。私と三つ違いのはずですから、三十五歳?」 「県内にいないことを祈りたいね」捷輔が言った。  萌絵は盗み見るように隣の犀川の表情を窺った。彼の横顔に変化は微塵《みじん》もない。三年まえに一度、犀川は真賀田四季に会っている。彼女にそう話したことがあった。これは、誰にも秘密にしているのだろう。 「暇を見つけては、真賀田博士のことを調べているんですけれど、なかなかこれといった情報はありません」世津子が話した。「最近はインターネットの普及で、情報だけは沢山、それも簡単に手に入るんですが、真偽のほどが確かめようがないですしね」 「え、インターネットに、真賀田四季の情報が出ているのですか?」睦子が尋ねた。 「はい、とても沢山あります」世津子は答える。 「たとえば、どんなことが?」睦子は首を傾げた。 「そうですね。目撃情報というか、どこどこで真賀田博士を見た、というようなことを集めたサイトがあって、そこに、世界中から情報が集まってきます」 「どこにいるの?」 「どこにでも」世津子は答え、微笑んだ。「南米にも、アフリカにも、オーストラリアにも」 「日本にも?」睦子がさらに尋ねる。 「ええ、日本でも各地で目撃されていて、それらしい写真まで公開されていますね」世津子は答える。 「私も、そのサイトなら見たことがあります」萌絵は言う。 「でも、ほとんどは面白半分で作られた偽の情報でしょう」世津子は首をふった。「あるいは、わざと作られている偽の情報か」 「アメリカにいるんじゃないかな」捷輔が低い声で言った。「やはり、MF社との関係が一番強いだろう。真賀田四季の才能を誰よりも活用できるはずだからね」 「先生は、どうお考えですか?」犀川が黙っていたので、萌絵は尋ねた。 「既に、ソフトウェア関係の分野にはいないと思います」犀川は答える。「退屈な繰り返し作業を続けるとは思えないので」 「うーん、とすると、もっと別の企業に匿《かくま》われているってこと?」 「あ、そういえば、えっと、ロバート・スワニィ博士との関係を調べたことがあります」世津子は言った。  それを聞いて、犀川の表情が少しだけ動いた。その小さな変化を萌絵は見逃さなかった。 「スワニィって、誰ですか?」萌絵は尋ねる。 「えっとね」世津子が目を細めた。「三年くらいまえに、失踪したアメリカの学者で、専門は、バイオ関係」 「それ、どこから聞いた情報?」犀川が尋ねた。 「ええ」世津子は頷く。何かの決心のようだ。萌絵を挟んで、世津子と犀川が向き合った。「メールで知り合った日本人。海外に住んでいたの。確か、彼の奥さんだったか、彼女だったかという人が、昔、真賀田四季と一緒に仕事をしていて、えっとね、その人がいなくなってしまったんで、探していたわけ」 「どうかしたんですか? 先生」萌絵は犀川の右腕にそっと触れる。彼の真剣な視線がよくわかったからだ。 「うん」彼はちらりと萌絵を見る。「なんか、少しひっかかるね」 「何が?」 「わからない」 「もうとっくに引退しているんじゃないの?」睦子が言った。「そうそう働けるものじゃないわ。今頃どこかでのんびりと暮らしているのでしょう」 「少なくとも、時効になるまでは出てこないだろうね」捷輔が言う。 「スワニィか……」犀川は呟いた。「それは、気づかなかった」  犀川は下を向き、眉間《みけん》に指を当てる。計算しているようだ。隣にいて、萌絵まで鼓動が激しくなった。  犀川は何かに気づいたのだ。  何だろう?  諏訪野がデザートを運んできた。 「コーヒーにいたしましょうか? それとも、紅茶にいたしましょうか?」 「あらま、こんなくだらない話をしている場合じゃないわ。誰です? 言い出したのは……。そう、お兄さまじゃなかった?」 「ん? そうだったかな」 「そんなことよりもねぇ、犀川先生? 是非ともこの際ですから、ここで、はっきりとおっしゃっていただきたいと思いますのよ。萌絵に、プレゼントをされたのでしょう? ええ、つまり、それの意味と申しますか、意図ですわね」  犀川は黙って下を向いている。 「先生?」萌絵が横から声をかける。 「犀川先生」睦子が呼んだ。 「はい」彼はようやく顔を上げる。 「もちろん、結婚するおつもりがあるのよね? 決断をなさったのですね?」 「あ、はい」犀川は簡単に返事をした。  萌絵は自分の心臓の鼓動で何も聞こえなくなった。言葉も出なくなった。隣の犀川は、しかし無表情で、いつものままだ。まるで上の空といった顔つきだった。 「いや、あの……」犀川は胸のポケットに片手をやる。「突然で、その、申し訳ないのですが……」 「ええ、ええ、どうぞどうぞ」睦子が目を丸くして言った。 「煙草を吸ってきてもよろしいでしょうか?」犀川は立ち上がりながら言う。  口を開けたまま停止した睦子の横を通り、犀川は食堂から出ていった。煙草を吸うために、上のリビングまで行くつもりなのだ。 「ちょっと、私も」萌絵も素早く立ち上がる。 「あらあら」睦子が大袈裟な素振りで天井を仰いだ。「なんなんでしょう、いったい」 「まあまあ、いいじゃないか、煙草くらい」捷輔が笑う。 「まったく……」舌打ちをして、ゆっくりと睦子が捷輔の方へ顔を向ける。「何のお話ですか?」 「あのぉ……」世津子はテーブルに片手を触れ、躰を前傾させる。「私、よく事情がわからないのですけれど、兄と萌絵さん、婚約でもしたのでしょうか?」 「うーん、それがねぇ、したような、しないような」睦子が顔をしかめる。「ホント、はっきりしないのよぅ、あの二人。信じられないでしょう? 世津子さん、何も聞かれてない?」 「ええ、何も」 「そう……」  諏訪野がテーブルに近づき、捷輔の顔を窺った。 「ああ、いつものを頼む」捷輔は口もとを緩めた。アルコールの注文だった。      4  螺旋階段を上がり、リビングに出る。深い絨毯《じゅうたん》の中にソファが浮かんでいた。犀川はそこに腰掛け、すぐに煙草に火をつける。テーブルの上にあった灰皿を引き寄せ、膝に肘をつく。  萌絵が階段を上がってきた。  犀川を見て、彼女は神妙な顔つきで近づいてくる。 「どうか、しましたか?」彼女はきいた。夢を見ているような表情だったが、それは、犀川が夢を見ているせいかもしれなかった。 「いや」彼は煙を吐く。  萌絵は、犀川の隣に腰掛けた。ソファは、二人が座っても、絨毯の中へは沈まなかった。間に充分な距離がとれるほどのサイズがある。どういうわけか、彼女の仕草がスローモーションで見えた。  リズムの速い音楽が、犀川の頭の中で流れている。  その速さのせいで、外界の時間が遅く感じられるようだ。  考えないようにしていたことが、ある。  彼はそれを思い出した。  ずっと隠されてきた、魔法のように、宝物のように。 「でも、先生、なんか考えている」萌絵が言った。「私、邪魔ですか?」  彼女の唇を見た。その動きが見て取れる。  言葉の軌跡が見えた。  萌絵の黒い髪は、肩よりも下まで、伸びている。  四季の髪型に似ていた。  その白い顔も、白い頬も、よく似ている。  瞳の色は違う。  ゆっくりと、一度瞬き、彼女は、その瞳を再び犀川へ向ける。  液体の中に浮いているような瞳だった。  唇も小さく照明を反射している。 「駄目だ……」犀川は呟いた。  あのとき、  六年半まえのあの場所へ、思考は飛翔する。  真賀田研究所の中に、彼はいる。 「駄目って?」萌絵の声が遠い。  何だ?  そう、何かのプログラムに乗せられたはず。  思い出せ。  四季は、ファイルにメッセージを残した。  そんな真似をする彼女なのだ。  犀川のために、犀川に読ませるために、書かれたメッセージ。 「そうか……」彼は呟く。  加速感。  思考は時空を越えて走る。  萌絵が何かを言った。  彼女が、犀川の手を握ったようだ。  しかし、彼はもうそこにはいなかった。  そもそも、四季は何のために、あれをやったのか。  それを、知らせるためのメッセージが、  存在したはず。 「先生?」  ハイウェイのカーブは大きくバンクしていた。  そこを走り抜ける。  顔に風が当たる。  圧力に目を細める。  突然、音が消え、光が過ぎる。  力を入れて、煙草を持っている片手を持ち上げ、  そして、口へ運ぶ。クレーンを操縦しているようだった。  数々の時間、  数々の場所、  数々の人生、  数々の生命、  その組合せを試す、パラメトリック・スタディ。  可能性の道、  道筋の確率、  確率の数値、  数値の集積、  それらをインプットにして、シミュレーションが走る。  光だ。  急速に接近する出口。  そこを抜けると、  紫色の海底を這《は》うように進み、  やがてオレンジ色の光の中へ吸収されていく。  見ているのは、天井の照明器具だった。  オレンジ色が黄色になり、そして白くなる。  漂《ただよ》っている煙。  煙草の灰が落ちそうだ。  その煙草のすぐ下に、灰皿があった。  その灰皿を両手で萌絵が支えていた。 「ああ、ありがとう」彼は言う。  煙草の灰が、その灰皿の中へ落ちた。  空中戦を演じたあとのように、灰が落下する様子がスローモーションで見えた。  灰皿が遠ざかる。  萌絵がそれをテーブルに戻した。  彼女は犀川が持っていた煙草を取り上げ、灰皿の中で揉み消した。  彼はしかし、まだ余韻に浸《ひた》っている。  地球に帰還した宇宙飛行士のように。  アドベンチャの復習を今しないと、夢のように霧散してしまうからだ。  息を止めて、じっと再思考。 「先生?」萌絵の声。  彼女に押されて、躰が傾いた。  背中がソファの肘掛けに当たる。  萌絵の顔が近づいた。  彼女は犀川に抱きついている。  何をしようとしているのだろう?  しかし、地球の空気を吸えば、それもわかる。  彼は呼吸をする。  音が戻り、  そして、理解した。  ゆったりとした音楽が小さく聞こえる。  萌絵はソファの上に乗っていた。 「何?」彼はきいた。 「大丈夫ですか?」 「誰が?」 「先生です」 「もちろん。見たら、わかるだろう?」 「わかりません」 「何ともないよ」 「どうしたんですか? 何を考えていたの?」彼女の口調は明らかに怒っている。 「うん、何を考えていたか、それが口で説明できるほど少ない計算量ではなかった。一言ではとても無理だ」 「一言じゃなくてもいいわ。真賀田博士のことでしょう?」 「そうだ」 「もう!」萌絵は犀川の腕を押す。 「どうしたのさ。何を怒っているの?」 「怒りますよぅ、普通。こうして抱きついている私の身にもなって下さい」 「それは無理だ。なれない」 「邪魔だったら、邪魔だって、おっしゃって下さい。出ていきますから」 「もう、邪魔じゃない」 「さっきまでは邪魔だったんですか?」 「少しだけ」 「なんですって?」萌絵は犀川から離れ、ソファから立ち上がった。 「ごめん、悪かった」犀川は溜息をついた。「違うんだ。そういう問題じゃない。あのね、もっと考えなくてはいけないことがある。ちゃんと話せば、君にもわかってもらえると思う」 「ちゃんと話して下さい」萌絵は腕組みをした。「ああ、もう、久しぶりに頭に来たわ、私」 「僕のアパートへ行こう」犀川は言った。 「え?」萌絵は一歩後退する。目を見開き、口を開けた。 「今からすぐに」 「え? えっと……、そんな急に」 「説明するから」 「ちょ、ちょっと、待って下さい」 「いや、待てない」 「そんなに、その、急がなくても、あのぉ、だって、叔父様たちもいるし、儀同さんだって……」 「黙って出ていけば良い」 「うわぁ」萌絵は腕組みをしていた片手で口を覆《おお》った。「どうしよう」 「どうするかは君の自由だよ」  萌絵の目に涙が滲《にじ》んだ。彼女はそれを拭《ぬぐ》おうとしない。  頬に涙が伝った。 「西之園君、どうしたの?」 「いいえ。行きます」彼女は頷いた。大きく深呼吸をする。「行きますとも」 「大丈夫?」 「大丈夫です」      5  マンションの地下駐車場。外来者のスペースに犀川の芥子《からし》色の車が駐まっていた。来るときには、儀同世津子を乗せてきたのだろう。彼がキーでドアを開け、助手席に萌絵は乗り込んだ。とても寒い。ヒータが効くまでに、時間がかかりそうだった。 「儀同さんが困らないですか?」萌絵は尋ねた。みんなに黙って、抜け出してきたからである。 「子供じゃないんだから、タクシーでも何でも帰れる」 「冷たいお兄様ですね」 「君こそ、諏訪野さんか、叔母さんに、せめて電話をしたら?」 「うーん」萌絵は顔をしかめる。「叔母様に何を言われるか……」  エンジンがかかり、軽《かろ》やかに車は動きだす。スロープを上がり、歩道を横切って車道に出る。夜のメインストリートへ合流すると、車は静かに左側の車線を走った。相変わらずの安全運転である。 「待てないとかおっしゃってたわりに、ゆっくりですね」萌絵は場を和《なご》ませようとして言った。あまり面白くなかった。嫌味にとられたかもしれない。 「そもそも、妃真加島の研究所から真賀田博士が抜け出した目的は何だったのか、それが問題なんだ」犀川は別の話をする。 「え? そんなことを考えていらしたのですか? 今頃になって」 「普通だったら、自由の獲得だと考える。そう思うよね?」 「ええ」 「僕もそう考えた」 「違うのですか?」 「もしそれだったとしたら、何故、十五年間も我慢した?」 「うーん。だって……」 「あの中にいても、彼女の自由は保証されていたんじゃないかな?」 「でも、あんな場所に閉じ込められていたら、何もできません」 「いや、何でもできた。何でも考えることができたはずだ」 「考えるだけです」 「考えることだけが、自由なんだ」犀川は言う。「行動なんて、些細《ささい》な問題だ。考えたことを、僅かに具体的に、ほんの部分的に試すに過ぎない。完全なサブセットなんだ。考えたことの百分の一だって実現することはできない。行動するだけで時間やエネルギィが消費される。真賀田博士くらいの思考能力を持っていれば、行動はすなわち無駄だ」 「行動が無駄」萌絵は言葉を繰り返す。「それって、つまり、生きていることが無駄、ということになりませんか?」 「いや、思考は生きていなければできない。肉体を動かすこと、物体を移動させることが無駄だという意味だよ。そう考えている人間が、何故、あんなことを、つまり研究所を抜け出したりしたのか、という問題」 「先生は、どう考えているの?」 「わからなかった。僕には、理解できないものだと考えていた。ただ、ずっとひっかかっていたことは確かなんだ。自由へのイニシエーションといった、ぼんやりとしたイメージでお茶を濁していた。それこそ、彼女のマジックだったかもしれない。でもね、あの人は必ず、自分以外の知能の追従を意識している。その余裕によって、自分自身の位置を持続しているからなんだ」 「わかりません、意味が」 「誰かに、追いついてほしい、と考えているんだよ」 「追いついてほしい?」 「そう」犀川はステアリングを切りながら頷いた。前を向いたままなので、萌絵はずっと彼の横顔を見つめていられる。「Fになる、というメッセージを残したり、プログラム上でも、形跡をわざと消さなかった。自分よりも、どれだけ人類が遅れているか、そのタイムラグを観測しようとした、といっても良いね」 「ああ……、それ、なんとなくわかります。真賀田博士が私たちに興味を持ったのも、それが理由なんですね?」 「それはどうかな。しかし、少なくとも、僕たちがどう考えるか、ということは、ほとんど見抜かれていたと思う。とっくにトレースされていただろう」 「それは信じられません」萌絵は言った。「どんなに頭が良くたって、人の心までは読めないわ」 「心を読むわけではない。気持ちとか感情といったものは、周囲の条件や過去の体験などが絡《から》んで非常に複雑、かつ多分に偶発的だ。だけど、論理的な思考は違う。それは、ある程度予測できるものだよ。その論理の道筋が明確であるほど予測が可能だ」 「で、どんなメッセージがあるとお考えなのですか?」 「いや……」犀川は首をふった。「わからない」 「わからないのに、どうして……」 「どうして、何?」 「ちょっと待って下さい。あの、先生、今、先生のご自宅へ向かっている理由を教えて下さい」 「なんとなく、そこにヒントがあると思った」 「それじゃあ、私は、いなくても良いの?」 「君のことが邪魔だとか、そんなふうに考えたことはない。さっきは、なんだか怒っていたみたいだから、ちゃんとそのヒントを検討して、一刻も早く僕の立場を説明したかった。まだ、できるかどうかわからない。今夜は逃してしまうかもしれない」 「ああ……」萌絵は大きな溜息をついた。「先生、あのぉ、そういうことではなくて、私、もっと二人のことを考えていただきたいと思います」 「二人って?」 「先生と私です」 「あぁ、そうか」 「あそうかって……」 「いや」 「どうなっちゃうんでしょう? 私たち」萌絵は下を向いた。 「西之園君?」 「もう……、むちゃくちゃですよね」 「何が?」 「わからない」  萌絵は目を瞑った。目が熱かった。  犀川は車を歩道へ寄せて停める。 「泣いているの?」 「ああ、変だ」萌絵は涙声で言った。「私って、こんなに泣くかしら?」 「どうして、泣いているの?」 「わかりませんか?」萌絵が早口で言った。 「うーんと、いや、うん、わからないでもない」 「何ですか、その言い方」 「いや、悪かった。とにかく、怒らないでほしいんだ。君が怒ることを、僕は望んでいない。怒らせるつもりはない」 「全部同じ意味です、それ」 「なんていうのか、少なくとも、怒っていない君の方が好きだ」 「真賀田博士のことなんて、忘れてほしい」萌絵は言う。「先生、あの人のことで頭がいっぱいなんじゃありませんか? 私、嫉妬《しっと》しているんです」 「うん」犀川は頷いた。「しかし、それはたとえば、研究のことで頭がいっぱいとか、チェスをするときは、チェスで頭がいっぱいとか、それと同じことだと思うよ。すぐに切り換えられることじゃないか」 「だったら、すぐに切り換えて下さい」 「でも、その、もう少しで何か掴めそうなんだ。不器用だから、コントロールできなくて……」 「もう六年以上もまえのことじゃないですか」 「どうして、今まで考えなかったんだろう? 君のことで頭がいっぱいだったのかもね」 「それ、ジョーク?」 「うん、まあ」 「最低!」萌絵は犀川を睨みつける。  彼は口を斜めにして、彼女を見据えた。  数秒間見つめ合う。  彼女は根負けして、少しだけ微笑み、溜息をついた。  車は繁華街に停まっている。車内はいつの間にかヒータが効いて、少し暑いくらいだった。前はタクシー。歩道にも人が多い。こちらをじろじろと見ていく者もいた。 「あのぉ、ここは恥ずかしいです。車を出して下さい」 「そうだね」  犀川はギアを入れて、車を出した。  のろのろと犀川の車は走り始める。 「駄目だ、僕も頭が混乱してきたよ」 「私なんか、もうぐちゃぐちゃですよ」 「ひとまずさ、僕たち二人のことは考えないで、真賀田博士のことに集中する、というのは、どうかな?」 「どう集中するんですか?」 「いや、とにかく、あのときのことを考えるんだ」 「何のために、犀川先生のアパートへ?」 「うーん、なんか、そっちの方向だと、誰かが言った」 「誰が?」 「僕の中の誰かが」  沈黙。  エンジンの排気音と、タイヤの音。  信号の点滅。  交差点を左折し、坂道を上っていく。 「長崎のとき、彼女が僕たちにコンタクトしたのは、確かめようとしたからなんだ」犀川は淡々と話す。「そう、変だと思った。僕や君が、その何かに気づいているかどうか、それを見極めるために、真賀田博士は会いにきたんだ」 「私、何も気づいていませんでした。今もです」 「僕もだ。だから、あれ以来、真賀田博士は僕たちに見切りをつけて、もう現れないだろう?」 「よくわからない。真賀田博士は、私たちに気づいてほしいの?」 「そう、少し遅れて、あとから気づく。それで距離を測っているんだよ」  また沈黙。  萌絵は何も言えなくなった。  じっとフロントガラスを見つめている自分。  車は住宅街の中へ入っていく。辺りは暗くなった。 「先生とおつき合いしていると、だんだん自分に自信がなくなってきますね」萌絵は静かな口調で言った。「そもそも、私の自信なんて、そんな程度のものなんだ」  彼女は横の犀川を一度見る。  彼は黙っていた。 「私は人間として扱われているでしょうか? 私は女として扱われているでしょうか?」 「扱うという言葉は不適切だと思うけれど、君のことは、尊重しているつもりだ」 「すいませんでした。泣いたりして」 「いや……」 「もう一度、仕切り直して良いですか?」 「何を?」 「先生からいただいたプレゼント、あれは、どういうおつもりでしょうか? 先生のどんな意志だと、私は考えれば良いでしょうか? 言葉にして説明していただかないと、理解できません」 「ああ、そうだね、あれは……」  突然、メロディが流れる。 「あ、ごめんなさい」萌絵は慌ててハンドバッグの中から携帯電話を取り出した。「どうしよう、やっぱりかかってきちゃった」 「出たら」犀川は簡単に言った。  萌絵は携帯を開き、ボタンを押してから、それを耳に当てる。 「はい。あ、叔母様、ええ、申し訳ありません。ちょっと、急に、出かけることになってしまったんです。あ……、あの……、いえそんな、あ、はい、はい、そうです……、うーん、あの……、はい……、もちろん、いらっしゃいます。あの、あとで……、いえいえ、そんなんじゃありません。信じて下さい。どうか……、ええ、はい、わかりました。はい、はい、そうですね。叔父様に、それから、儀同さんにも、失礼をお詫《わ》びしていた、とお伝え願えないでしょうか……。はい、本当にごめんなさい。ええ、すみません。ええ、わかっています。ええ、本当に……。でも、いえ、そうですね。ええ、わかりました。また、ちゃんと改めてご説明しますので……。はい……」  電話を持った手が膝に落ちる。萌絵は大きく溜息をついた。 「叱られた」彼女は言う。 「僕のせいだ」 「いえ、これは私の判断です。というか……、勘違いして、期待した私が馬鹿だったんだわ」 「何を期待したの?」  可能な限りの抵抗として、萌絵はそのあと口をきかなかった。犀川のアパートに到着し、駐車場へ車を入れる。犀川も黙って外に出た。萌絵も車から降り、彼についていく。  階段を上がり、犀川の部屋の前まで来た。 「あぁ、なんか緊張してきた」萌絵は小声で口をきいた。 「機嫌が直ったみたいだね」犀川が言う。 「直さなきゃ損ですものね」萌絵は微笑む。 「意味がわからない」犀川は無表情で応え、ドアにキーを差し入れた。  暗い部屋。寒々しい。  犀川がスイッチを入れて、照明が灯る。リビングに入ると、エアコンのリモコンを操作した。彼は部屋の真ん中で立ち止まった。コートを着たままだった。  萌絵は遅れて玄関から上がり、リビングの戸口に立って、彼の背中を観察していた。彼は三分ほどそうしていた。  動かなかった。  萌絵は黙って待った。  カーテンが引かれているため、ベランダ側のガラス戸から外は見えない。  ソファの背には三着ほど上着がかかっていた。皺《しわ》になっているだろう。テーブルの上にも、雑誌や本が積まれている。冷蔵庫のサーモスタットが入り、モータ音が静かに鳴った。 「もう少し待っていてくれ」犀川は囁《ささや》いた。  こちらを見ない。  この部屋の酸素をすべて吸ってしまうつもりだろうか。  チャイムが鳴る。  萌絵は振り返った。誰か来たようだ。 「先生?」 「出て……」犀川は簡単に言った。「断って」  セールスだろうか。しかし、時刻は既に八時を回っている。  ドアへ近づき、覗き穴から外を見ると、知った顔がそこにあった。彼女はドアを開ける。 「喜多《きた》先生」  喜多はまったく動かなかったが、目を少しだけ大きくした。 「あけましておめでとうございます」萌絵は微笑む。 「やあ……」彼は頷いた。「悪かった。また、出直してくる」  彼は、通路を階段の方へ戻り始める。 「あ、先生」萌絵は、履きものを急いで履き、通路に飛び出した。  階段の手前で彼に追いつく。 「ちょっと今、その、立て込んでいまして」 「いいよ、そんな説明は」喜多は笑った。「こっちは大した用事じゃない。創平によろしく……、っていうよりは、創平をよろしく、だな」 「いえ、別に帰られることはないと思います。あのぉ、えっと、もう少しだけ待っていただけませんか? ちょっと、犀川先生が、その……」 「着替え中とか?」 「違います」 「冗談だよ」喜多は笑う。「何をしてる?」 「考えていらっしゃいます」 「何を?」 「えっと、六年半まえの事件、あの妃真加島の……」 「はあ? どうして?」 「急に、何か思いつかれたみたいで……」 「西之園さんは、どうしてここに? あ、いや、そんなこと、詮索するつもりはないんだ。とにかく、お邪魔はしたくない。しかし、君がいるのに、あいつ、そんな、考えている場合じゃないだろう」 「ええ」萌絵は素直に頷いた。「そうなんですよ」 「どうかしてる」 「どうかしてますよねぇ」 「いや、もともとどうかしているんだ、あいつ」 「そう……かも、しれませんけれど」 「うーん、どっちにしても、困った野郎だな」 「はい」萌絵はまた頷いた。 「なんだったら、ちょっと、がつんと言ってやろうか?」喜多が一歩前に出る。 「あ、いえ」萌絵は両手を広げる。「いいんです。あの、私だったら、もう、その、すっかり諦めていますから」 「なんか無性に腹が立ってきたけど」 「ごめんなさい、先生。私がよけいなことを言いました」萌絵は、両手を合わせて目を瞑った。「あの、とにかく、温かいお茶でも飲んでいかれますか?」 「え?」喜多は片方の眉を上げる。「あぁ、なんか、凄いね」 「何がですか?」 「ここ、西之園さんち?」 「え? いいえ……」 「奥さんみたいだ」 「ちょっと、あの、その……、様子を見てきますから、すみません。ここでお待ち下さい」萌絵は片方の手のひらを彼に見せたまま、ドアの方へ下がった。 「駄目だよ、あんな馬鹿を野放しにしちゃあ」喜多が笑いながら言った。      6  萌絵が淹れたコーヒーが、テーブルに三つ並んだ。  彼女は静かに椅子に腰掛ける。その隣で犀川が腕組みをして目を瞑っている。喜多は反対側の椅子に横向きに腰掛け、肘を椅子の背にのせていた。もう片方の手に持った煙草から上がった煙が天井の近くで広がろうとしている。 「何か言ったらどうなんだ?」喜多が可笑《おか》しそうに言った。「コーヒーが来たよ」  犀川は無言で頷く。その横で萌絵は彼を見つめている。よく把握できないが、とにかくこの状況は心配だった。 「駄目だ」犀川が呟く。 「何が?」喜多がすぐに尋ねた。 「わからない」犀川は首を一度だけ横にふり、息を吐いた。「今の僕には無理だ」 「何がわからない?」喜多がきいた。 「先生、さっきは、わかったって……」萌絵は小声で言った。  ついさきほど、様子を見に部屋へ戻ってみると、犀川は、「わかった、そうか」と呟きながら、奥の部屋へ入っていくところだった。もう終わったのだ、と彼女は判断して、外で待っていた喜多を招き入れた。キッチンでコーヒーを淹れ、少しは和やかな雰囲気になるかと安心した。  しかし、喜多が訪ねてきたことに対しても、犀川はまったくの無反応で、黙って椅子に座ったかと思うと、顔を少し上に向けて目を瞑ってしまった。それから五分ほど、彼はまったく動かなかった。喜多も、何も言わず煙草を吸って待っていた。何度か、萌絵と喜多はお互いの顔を見合った。  暇を持て余して、萌絵は、犀川の部屋を観察した。  ここにはテレビがない。非常に殺風景なリビングだ。それでも、キッチンの周りは比較的整理されている。おそらく何も使っていないためだろう。  コーヒーメーカが音を立てたので、萌絵は立ち上がり、カップを探して、それを注ぎ入れた。テーブルの上の雑誌類を軽く脇へ寄せて、カップを置いたところである。  喜多が外を見るためにカーテンを開けたので、ガラスに室内が映っていた。彼女は、そこに自分の姿を見た。主人の友人が尋ねてきた、その持て成しをしている。コーヒーだけでは少し淋しいように思う。日頃から用意をしておかなくてはいけない。諏訪野がいたら良いのに、などと考える。 「おい、創平」喜多が煙を吐いてから言った。「西之園さんが淹れてくれたコーヒーだから、ありがたく飲むけれど、お前には用はないんだ、すぐに帰るからな」 「用がないのに来たのか?」犀川が抑揚のない口調で言う。 「電気がついてたんで、寄っただけだ」 「蛾と同じだ」犀川は言う。 「蛾?」喜多は短い溜息をつき、彼女の方を向いて急に微笑んだ。「西之園さん、コーヒー美味《おい》しいね。君がいなかったら、僕はここにいない」 「ねえ、先生、何がわかったの?」萌絵は尋ねる。 「わかったのは、糸口だけだよ」犀川は答えた。「これだ」  彼は、手に握っていたものをテーブルの上に置いた。  黄色いブロックだった。  犀川は、煙草の箱をポケットから取り出し、一本を抜き取る。 「何だ、レゴか」喜多が言った。 「これ……」萌絵は目を丸くして、両手で持っていたカップをテーブルに戻した。「真賀田博士の部屋にあった?」 「ん?」喜多が眉を寄せる。  六年半まえの夏。妃真加島。その孤島の研究所の地下に、真賀田四季は閉じ込められていた。彼女が出ていったあとに、萌絵と犀川はその部屋の中に入った。四季が十五年間を過ごした生活空間。その一室に、それはあった。プラスティック製のブロック。沢山あった中から、一つを抜き取り、犀川は記念に持ち帰った。 「これが……、どうかしたのですか?」萌絵は尋ねた。  犀川は黙って煙草に火をつける。 「これが、真賀田博士が残したメッセージなんだ」彼は言った。「これ以外にない」 [#改ページ] 第3章 収斂の末のゼロ・デバイド [#ここから5字下げ] そして、娘の黒いきらきらした目が、長い絹ふさのようなまつ毛の奥から、魂のこもった目《ま》なざしで、炎のあとを追っていました。もしそのあかりが、目に見えるかぎり燃えつづけているならば、愛する人はまだ生きている、けれども、もしそれまでに消えるようなことがあったら、もうこの世にはいないのだということを、娘は知っていたのです。 [#ここで字下げ終わり]      1  イタリア、ミラノ、スカラ座の通りをセントラル駅の方向へ五分ほど歩いた一角に、そのホテルはあった。ストリートの中央にはトラムが走り、石畳の道路では車のタイヤ音が響く。歩道に突き出したテントや、僅かに窪《くぼ》んだ玄関へステップで上がっていくアプローチがいずれも慎《つつ》ましく、外部には「一流」を漏らさないデザインだったため、ときどき停車するタクシーと、そのときだけ姿を見せるドアボーイに目をとめなければ、気づかずに通り過ぎてしまうかもしれないほどだった。  しかし、一歩屋内に入れば、高いボールト天井、素晴らしく洗練された壁のクロス、そしてクラシカルな物語を伝える絵画、さらに奥の待合室には金銀をあしらった彫像、優雅な曲線の家具、仄かに異国を意識させる深い絨毯など、贅《ぜい》を尽くしたアイテムに抜け目なく「格式」が演出されていた。  そのラウンジに各務亜樹良がいる。  テーブルに幾つも資料を広げ、それらを眺めながらメモを取っていた。紅茶は既に二杯目だった。  テーブルの前に誰かが立ったので、またウェイタがサービスに来たのだと思って顔を上げずにいた。ところが、突然聞こえてきたのは日本語だった。 「ここ、座っていいかな?」低い声、懐かしい声だ。  亜樹良は身震いして、顔を上げた。  そこに立っていたのは、保呂草潤平《ほろくさじゅんぺい》だった。  マフラを両肩から垂《た》らしている。顎髭を蓄え、真っ黒なサングラス。髪は幾分茶色っぽかった。一見したところ、日本人だとは認識されないだろう。緑がかった革のジャンパに灰色のジーンズとブーツだった。外見の印象はずいぶん変わっていたが、もちろんすぐに彼だとわかった。  彼女は声も出なかった。ただ、小さく一度頷いた。  保呂草は上着を脱ぎ、椅子を引く。そこに腰掛けて、脚を組んだ。ウェイタが近づいてきたので、彼は仰け反るように振り返ってカフェを注文する。それから、また彼女を見据えて口だけで微笑んだ。 「久しぶりだね」彼は言った。  ポケットから煙草を取り出し、いつの間にか握っていた金属製のライタで火をつける。その蓋を音を鳴らして閉めると、煙を斜め上に吹き出した。 「仕事中? もしかして邪魔だったかな?」  彼女は首を小さくふった。  何を話そうか、と考える。しかし、言葉が出てこない。  なるほど、自分がこんなに驚くなんて、  このシチュエーションは、何度も想像したはずなのに。  そして、たった今、自分の中で立ち上がった、この気持ちも、  こんな感覚も、今まであまり経験がないものだった。  それだけ歳をとったのだろうか、と彼女は感じる。  溜息を静かについた。  持っていたペンを、ようやくテーブルに置く。  文字を書くためにかけていたメガネを外した。  今は髪も長かった。後ろで縛っている。それを外《はず》そうと、つい両手を持ち上げかけ、途中でやめた。彼のために髪を解こうとした自分が可愛いと思った。  彼女はなんとか微笑むことができた。 「どうして、ここだと、わかったの?」自分の声は乾いている。 「何年探したと思う?」保呂草は言った。 「三年? 四年?」 「まあ、それなりに、辿《たど》りつけるものだね。君が僕を見つけることに比べれば、ずっと簡単だ」 「どうして?」 「君の方が目立つ」 「うん、そうかな」亜樹良は頷いた。  彼女も煙草を取り出して火をつける。煙を吸い込み、過去の数々の時間へ目を細めた。 「日本にいたときは、見つからなかった」彼は話す。「どこにいた? 東京?」 「ええ」 「日本人だったら、隠れるのは、東京に限る」 「言葉が話せるなら、ソウルも」 「何か、僕に言うことがあるかい?」 「いいえ」亜樹良は首をふった。「何も」  保呂草は口を斜めにして、鼻から息をもらした。 「逃げられた女を追ってきた男だよ」彼は笑いながら言う。「何か、嘘でも良いから、それっぽい言葉があるんじゃないかな」 「けっこう執念深いんだ」  保呂草は舌を鳴らして横を向いた。 「ごめんなさい」彼女は瞬いた。「会えて、嬉しい」 「それは良かった」保呂草は無表情のまま頷いた。  沈黙。  亜樹良は、じっと保呂草を見つめていた。彼は、ときどきこちらを向いたものの、ほとんどは、ロビィの方へ顔を向けていた。  ウェイタが運んできたカフェを彼は手に取る。 「今は、何をしているの?」彼女は尋ねた。 「そっちは?」 「私は、もの書き」 「本当に?」 「細々とね」 「各務亜樹良で?」 「そう」 「僕は、何というか、そう、美術品関係」 「え? また、やっているの?」 「またって?」 「泥棒さん」 「いや、そうじゃない。こっちで買いつけて、日本で売っている。真っ当なビジネスだよ」 「名前は?」 「ああ、うん、椙田っていうんだ」 「椙田さん? 冴《さ》えない感じだね」 「冴えてもしかたがないから」 「ふうん、やっぱり、真っ当な仕事だって言いたいわけね」 「もちろん。だけどね、はっきり言って、真っ当なビジネスが、一番人を騙《だま》していると思うな」 「ああ、そうかも。私も、まえの主人の仕事を見ていて、何度もそう思ったよ」 「真賀田四季とは?」 「え?」 「彼女がどこにいるか、知らないかな」 「なんだ……、あぁ」亜樹良は溜息をついた。「喜んで損をした。私じゃなくて、真賀田博士を捜しているってことか。残念でした」 「違うよ、そういう意味じゃない」 「何日か、私をつけたってわけね?」 「いや、そんなことはしていない。彼女と関係があるんじゃないのかなって、想像しただけだよ。急に、消えてしまったのも、その関係だと思ったんだけれど、違う?」 「違う」亜樹良は首をふった。「だけど、そうだね。真賀田博士になら、あれから一度だけ会ったよ」 「いつ?」 「言えない」 「そうか」保呂草は煙を吐く。「CIAが探しても見つからないかな?」 「たぶんね」 「どうやったら、そんなことが可能かって、考えたんだ」保呂草は微笑んだ。「簡単だよね。方法は一つ。お金だ。世界一の大富豪と結婚すれば良い。君がしていたようにね」 「もうそういうやり方は古いよ」亜樹良も微笑んだ。「結婚? 何それって感じ」 「さて、このコーヒーを飲んだら、どうしようか?」 「ご自由に」 「うん、たとえば、ミラノの街でも、案内してもらえないかな?」 「してくれるんじゃない。向こうのアーケードの方まで行ったら、案内したがっている人が、いっぱいいるから」 「君は?」 「私は、締切間近の原稿があるの。今、構想中。あとで打って、送らないと」 「そうか」保呂草は頷いた。「邪魔をしたね」彼は灰皿で煙草を消して立ち上がった。 「それじゃあ」  椅子の背に掛けてあったジャンパを掴み、彼はラウンジから出ていく。  こちらを振り向きもしない。  出口のレジのところで立ち止まり、支払いをしているようだった。一人分を払ったのか、それとも二人分なのか、しかし、亜樹良はそんなこと、どちらでも良かった。テーブルの上に広げられた資料を見る。ピントはそれに合わなかった。何秒でこれを片づけられるか考える。  この賭けは不利だ。  向こうは、こちらの居場所を知っている。  自分は、彼がどこにいるのか知らない。  これっきり会わないつもりだろうか。  保呂草はレジから立ち去った。もう姿が見えない。  一秒間だけ目を瞑り、彼女は決断した。  テーブルの上の資料を急いでバッグの中へ放り込み、上着を持って席を立つ。レジで尋ねると、料金は既に支払われていた。  ロビィを小走りに駆け抜ける。彼の姿はない。  玄関のドアを押して、外へ出た。  右。  そして左。  ストリートを黄色いトラムが通り過ぎる。  ボーイに尋ねようか、と振り返ったところに、保呂草が立っていた。 「案内がしたくなった?」彼は言った。  亜樹良は空を見上げて息を吐く。  二人は腕を組み、歩道へ下りた。      2  県警本部の建物の通路。病院のような雰囲気《ふんいき》だが、歩いている人間たちは、もっと不健康そうだった。  鵜飼《うかい》が現れた。大きな躰を揺すって近づいてくる。 「どうもどうも、おめでとうございます。本年もよろしくお願いします」嬉しそうな表情である。「ご無沙汰しています。最近、お忙しそうですね」 「ちょっとだけ」萌絵は頷く。「ありましたか?」 「どうして、こんな古い資料を?」 「実は、犀川先生なんですよ、言いだしたのは」 「え、本当に?」  少し移動して、ベンチに腰掛ける。自販機がすぐ横にあった。顔見知りが何人か頭を下げていく。鵜飼は、持ってきた封筒の中からコピィされた写真を何枚か取り出した。 「白黒でコピィしちゃいましたんで、ちょっとわかりにくくなったかもしれません」萌絵は写真を眺める。紙の大きさはA4判で、写真はそれよりも一回り小さいが、充分な大きさだった。コピィも鮮明で、多少コントラストが強調されている程度だ。写っているのは、レゴ・ブロックである。 「なんなら、カラーのデータを、あとでメールでお送りしましょうか? 特にセキュリティどうこうって写真でもありませんから」 「あ、そうですね、そうしてもらおうかな」 「便利になりましたよね、最近。だけど、ちょっとまえの事件になると、証拠品のリストさえ検索するのが大変なんですよ」 「ご面倒をかけて申し訳ありません」 「いえいえ、そんな……。これ、だって、まだ捜査中の重要なヤマですからね。ちゃんと主任にも許可は取りましたし。そうか、犀川先生、何かお気づきになったんでしょうかね? のちほど、正式にご依頼がいくかもしれませんよ」 「今は、どなたが担当です?」 「三浦《みうら》さんが引き継いでいますね。呼んできましょうか?」 「いいえ、お邪魔をするつもりは……」 「本当は、西之園さんに会いたいに決まってます。自分から出てきませんからね。ええ、呼んできますよ。あっちの部屋へ移りましょう」  鵜飼について歩く。コーナを二度ほど曲がり、会議室の前まで来て、鵜飼がドアを開けて中を覗いた。 「ここでお待ち下さいね」ドアを片手に彼は言う。 「なんか大ごとになっちゃいましたね」萌絵は苦笑いした。部屋に入り、振り返った。 「何も、お話しできるようなことはないんですよ」 「はいはい、大丈夫です。とにかく、すぐ呼んできますから」  鵜飼は立ち去る。ドアが閉まり、いろいろな音が閉め出された。窓にはブラインドが下ろされ、午後の光を濾過《ろか》していた。  彼女は椅子には腰掛けず、封筒の中から取り出した写真をテーブルの上に並べた。全部で八枚。ばらばらのレゴ・ブロックが写っているアップが二枚。少し引いて、コンテナのような容器全体を写したものが二枚。残りの四枚は、レゴで作られた人形の写真で、前からと両横から、そして後ろから撮影されていた。イギリスの近衛兵《このえへい》の人形である。背の高さは五十センチほどだった、と彼女は記憶していた。  どれも、あの研究所の地下、真賀田四季の部屋にあったものだ。犀川が記念に持ち帰ったのは、ばらばらにコンテナに入れられていたものの一つである。  彼は、これがメッセージだと言った。  それがわかった、と言った。  何が、どうわかったのか、その説明はない。  どんなメッセージなのかも、わからないという。  普通に聞けば理不尽な話であるが、犀川に限っては、むしろ通常のパターンといって良い。彼の言葉で表現すれば、それが「道筋」なのだ。その道の先に何があるかは、わからないが、とにかくそこを進めば良い、という意味らしい。「あとは計算したり、調べたりするだけだ。わかったも同然だよ」と彼は言う。どうして、その道筋が真理に到達するものだと判断できるのだろう、と萌絵には不思議でならない。しかし、たとえば、数学や物理の問題、あるいはクイズにおいては、この種の感覚は確かにある。それはわかるのだが……。  ドアが開いて、三浦と鵜飼が入ってきた。三浦は捜査第一課の警部である。インテリ、そしていかにもエリートといった風貌の男だ。 「どうも、ご無沙汰しております」三浦はにこりともせずに言った。 「こんにちは。お約束もせずに、突然お伺いして、どうもすみません」萌絵は頭を下げる。しかし、鵜飼には昨日電話をかけている。かなりの確率で、三浦にも伝わっていただろう。  三浦は萌絵に座るようにすすめた。 「真賀田四季のことで、いらっしゃったとか」三浦は椅子を引きながら話す。「どうしてまた、今頃になって……。それも、三年まえの長崎ではなくて、七年まえの妃真加島ですか?」 「ええ、どうしてなのか、私にもよくわかりません」 「一度、また犀川先生にお話を伺う必要がある、ということですね?」 「あの、この写真のレゴですけれど、これ、今はどこにあるのですか?」  三浦は鵜飼の顔を見る。 「警察にはもうありません」鵜飼が答えた。「たぶん、ご遺族のところでしょうね」 「ご遺族って……」萌絵は一瞬天井を見る。「真賀田博士は亡くなっていませんよ」 「いえ、あそこの所長さんです」 「ああ、そうか……」萌絵は頷く。「新藤《しんどう》さん」 「そうです」鵜飼は頷いた。「確か、そんな話を聞いたような気がしますね。もう一度確認してみますが」 「お願いします」 「どんなことでも、お任せ下さい」 「妃真加島の研究所は、今はもう閉鎖されているのですよね?」 「そう認識していますが」三浦が答える。 「あれは、誰の持ちものなのですか?」 「真賀田四季の所有です」三浦は表情を変えずに言った。 「そうか。新藤さんが亡くなったから……」萌絵は考える。 「しかし、その権利が彼女にあるかどうか」メガネの中で三浦の目が僅かに細くなる。 「あの、西之園さん。いったい何が、わかるのでしょうか? 真賀田四季がどこにいるかが、そのレゴから、わかるとも思えませんが」 「そもそも、あの事件が何故起こったのか、真賀田博士の意図は何だったのか、ということらしいです」  萌絵の説明に、三浦と鵜飼は難しい顔のまま、スローモーションで頷く。 「あ、それから、お願いが一つ……」萌絵は微笑んだ。      3  高いアーケードの下を、保呂草と亜樹良は歩いている。彼はときどき後ろを振り返った。誰かにつけられている、と思ったのだろう。亜樹良はそれが可笑しかったので密かに吹き出した。  広場に出る。観光客でいっぱいだった。その流れに従って、二人もステップを上り、教会堂へ入っていく。中は薄暗く、ステンドグラスから透過する光は、神々の賛美以外の役目を持たない、いわゆる最後の淘汰《とうた》を受けたものばかりだった。  亜樹良は保呂草の腕にもたれかかるように躰を預けている。こんな真似をするようになったなんて、まるで宗教ではないか、と彼女は思った。弱くなったものだ。そろそろ天使が迎えにくる頃かもしれない。  方々でガイドが説明する声がする。英語、イタリア語、それに日本語も聞こえた。二人は木製のベンチに腰掛けることにした。  保呂草に躰を接して座った。もうこうなったら、徹底した方が良いだろう。  保呂草は何気ない素振りでまた後ろを振り返った。 「誰も来ないから、大丈夫」亜樹良は言ってやった。「椙田さん、心配性だね」 「世界中どこへ行っても、安心できない」彼は静かに呟く。「君もそうなんじゃない?」 「私が? どうして? 私は堅気《かたぎ》だよ」 「神様の前で、よくそういうことが言えるな」保呂草は少し笑った。「さすがに、心臓が違う」 「もうすっかり足を洗いましたからね」 「お互い、若いときに貯金したおかげで、一生涯、安心できない人生が送れるってこと」 「一緒にしないでほしいな……。ねえ、何故、ミラノへ来たの?」 「君に会いに」  亜樹良は舌を鳴らした。「嘘ばっか」 「じゃあ、君は、どうしてここにいるんだい?」 「貴方を待っていたのよ」 「お互い、嘘で固めた人生だからな」 「その、お互いっていうの、気になるなぁ」 「人を待つなら、ベネチアくらいが相応《ふさわ》しいと思うけれど」 「何か、お目当てが?」 「神様の前で、そういう話はよそう」      4  県警本部を訪れた翌日、萌絵は新幹線に乗って東京へ向かった。学会の本部で開催される委員会に、国枝の代理で出席するためだった。しかし、その会議が始まるのは夕方の五時。  幾つか電車を乗り換え、お昼頃には、目的地に到着した。昨日のうちに電話で連絡はつけてあった。  病院のロビィの中へ足を踏み入れる。予想どおりの匂いがした。受付に名前を告げると、しばらくして、通路の奥から年輩の女性が現れた。新藤|裕見子《ゆみこ》である。 「まあ、本当に」彼女は両手を合わせ、にこやかに萌絵に近づく。 「お久しぶりです」萌絵は片手を出して、裕見子と握手をした。 「すっかり、大人になられましたね」 「いいえ、今日は、仕事のついでなので、こんなファッションなんです」 「今は、何をなさっているの?」 「まだ、学生ですけれど」 「えっと、でも、もう七年になるわよね。というと、ドクタ?」 「はい」 「あの先生のところに、まだいるの? えっと、犀川先生」 「はい、そうです」 「じゃあ、全然変わらないんだ」  階段を上がって、応接室へ案内された。テーブルの上にヘリコプタのソリッドモデルが飾られていた。 「あ、これ、研究所の所長室にありましたね。懐かしい」 「よく覚えているわね」裕見子は微笑む。  途中で若い女性がお茶を運んできた。二人は、世間話を幾つかする。病院のことを萌絵がきき、大学のことを裕見子が尋ねた。 「あの、お電話でお願いしたものは……」 「はいはい」裕見子は立ち上がり、デスクの向こう側へ回った。「探しておきましたよ。こちらへ、どうぞ」  裕見子は奥へ通じるドアを開けた。  萌絵は立ち上がって、そちらへ歩み寄る。  隣の部屋は書棚に囲まれた狭い場所で、窓もなかった。裕見子が照明のスイッチをつけると、中央のテーブルに、おもちゃの兵隊が横倒しになってのっているのが見えた。隣にプラスティックのコンテナが置かれている。 「ああ、そう、これです」萌絵は部屋の中に入る。「そのときのままなんですね」 「そう、さすがに誰も、触らないもの……。でも、こんなものが、どうかしたの? もし良かったら、差し上げましょうか?」 「え、本当ですか? ああ、どうしよう。持って帰るわけにはいきませんね」 「送らせましょう」 「では、是非。お願いします。きっと、犀川先生が喜ぶと思います。お手数をおかけして申し訳ありません」 「他のものは、見ないの?」 「どんなものがありますか?」 「うーん、そうね。四季さんが作ったパッチワークとか、それから、使っていた食器類とか」 「何か、彼女が書いたものは残っていませんか?」 「あの人は、文字なんか書かないのよ」 「ああ、そうか。全部コンピュータの中だったんですね」 「そう、それとも、頭の中か」裕見子は首をふった。「ですから、子供の頃から、彼女が書いたものは、何一つ残っていません。文字も絵も描かなかったの」  萌絵は、レゴのブロックをじっと見た。それに、どんな意味があるのか、まったくわからなかった。 「これ、今まで誰も触らなかったのですか?」 「さあ、どうかしら。テレビや週刊誌の取材が来たときに、何度か見せたことがありましたね。誰か、触ったかもしれません。あの頃は、そういったこと、一切合切《いっさいがっさい》が嫌で嫌でしかたがなかったわ」 「ご苦労が多かったことと思います」 「そうだ……。四季さんのことで本を書くんだっていって、作家の方が、何日か通ってこられたことがあったわね。えっと、何といわれたかしら、名前が思い出せないけれど、男の方で、うーん、四十代か五十代かしら。顎髭を生やした……」 「その本は出版されたのですか?」 「さあ、どうかしら。聞かないわね、噂も……。もう何年かまえだから、出るなら出ているはずですけれど」 「どんなことを調べていました?」 「うーん、いえ、四季さんのことで、少しお話をして、あとは、そう、このブロックを半日くらい眺めていらっしゃったかしら。パッチワークも、それから、四季さんが作った機械とか、ロボットとかの写真も。そうそう、あの機械は、ナノクラフトという会社に引き取ってもらったんですよ」 「はい、ええ、それは知っています」萌絵は頷く。 「だから、そのときは、写真しかなかったのね。つまり、あの長崎の事件のあとってことになるかしら」 「その作家の名前を、思い出していただけませんか?」 「ちょっと待って、名刺を探してきます」  裕見子は応接室へ戻っていった。萌絵は、テーブルの上に寝かされている兵隊の人形を観察した。四角い小さなブロックで組み立てられたものだ。つい最近、埃《ほこり》を拭った痕《あと》がある。凹凸がある箇所には埃が溜まっていた。腕も脚も、壊れてはいない。六年以上もの間、ずっとこのままだったのだろうか。  一方、コンテナの中に入っているパーツは、兵隊に使われたものに比べれば、数は少ない。余りがこちらに残っている状態だ。犀川はあの事件のとき、ここから一個を持ち出したのである。 「ああ、これこれ」裕見子の声が聞こえる。デスクの向こう側だった。萌絵は応接室へ出ていく。「椙田さんね。椙田泰男さん。知っている?」 「いいえ」萌絵は首をふった。  すぐにもネットで検索がしてみたかった。      5  二人は高いドームの天井を見上げていた。 「人間が造ったものとは、とても思えないね」保呂草は言う。 「こういうのが、好き?」亜樹良はきいた。 「うん」 「私は、駄目」 「どうして?」 「この教会、私のものじゃないから。私のものにできないから」 「自分のものだと思えば良い」 「持って帰れない」 「ここが自宅だと思えば?」 「そういう貴方こそ、どうして、人様のものを盗んだりするわけ?」 「単なる仕事の一つだよ。動かせるものを、移動できるものを、他の場所へ移すだけだ」 「自分のものだって、思うだけじゃ済まないわけ?」 「僕自身はそれで充分だけれど、金を出す連中っていうのは、心が狭いからね。自分以外の人間が眺めたり、触れたりするだけで我慢がならないんだろうな」 「貴方は、心が広いって?」 「うん、比較的ね」保呂草は微笑んだ。「たとえば、けっこう入れ込んでいる恋人でも、放っておける。自分以外の人間が眺めたり、触れたりしても、さほど気にならないよ」 「あそう」亜樹良は頷いた。「私は駄目。持って帰りたい」 「うん、まあ、そこら辺の不一致ってやつかな」 「そうね」 「ギャップは埋められないかな?」 「埋められないと思うよ」  保呂草の顔が目の前にある。  亜樹良は彼を真っ直ぐに見据えた。  ベンチの背に片手をのせ、彼女は躰を前傾させる。  彼のマフラに指をかけて、それを下に引く。  顔を寄せた。  唇が触れる。  彼の手が、亜樹良の背中へ回った。  その手に押され、圧力を躰中が感じる。  懐かしい香りだった。  唇が離れる。 「これが、切り札?」亜樹良はきいた。 「何の?」 「私から何かを聞き出したい」 「いや、特に何も聞き出そうとは思っていない」 「真賀田博士に興味があるのは、どうして?」 「みんなが探している」 「みんなって、警察?」 「そう、警察も」保呂草は頷いた。「殺人犯だ」 「無罪になったんだよ。その認識は間違い」 「九四年の方だよ」 「何も立証されていない」 「では、重要な参考人というべきかな」保呂草はドームを見上げていた。  彼女も上を見る。高く暗い空間に、一瞬、天使が飛んでいるような気がした。 「どこにいる?」彼は尋ねる。  亜樹良は黙っていた。  彼の胸に、彼女の片手は触れていた。それを動かすだけで、自分の躰を触っているように感じた。教会堂の、こんな厳《おごそ》かな闇の中では、自分たちの年齢も忘れられるかもしれない、という予感。  彼のジャンパの胸のポケットに、固いものが入っていることに気づいた。彼女はそこで手を止めた。 「それが、僕の切り札だ」 「え?」 「内ポケット」 「見てもいい?」 「ここに相応《ふさわ》しい」  亜樹良は、彼のジャンパに手を入れ、内ポケットのファスナを開ける。指先に金属の感触。彼女はそれを引き出した。  十字架のような形の装飾品だ。  鎖がついている。ゴールドかシルバか、判別できないが、大きさの割には、重量があった。目を近づけると、はめ込まれた宝石が不思議な光を反射する。  一瞬にして、彼女の躰は悪寒《おかん》に包まれた。  手が震えだしそうになる。 「エンジェル・マヌーヴァ?」亜樹良は口にする。  それは、ずっと彼女の夢に登場していた名前。  それを持っている彼女の手首を、保呂草の手が掴んだ。  彼は優しい表情のまま、その美術品を彼女から取り上げ、再び内ポケットに仕舞い込んだ。 「悪い。心配性なんでね」保呂草は亜樹良を見つめる。ぞっとするような冷たい視線だった。「持って帰りたい?」      6  夜十一時過ぎ。西之園萌絵はキャンパスの中庭に車を駐めて、事務棟の方へ回った。この時刻になると、通常のドアは外からは開けられなくなる。相当な遠回りになるが、ガードマンが常駐している事務棟の入口を通る以外にない。ドアを開け、暗いロビィを抜けていく。守衛室には人影がなかった。パトロールでもしているのだろうか。  階段を上がり、教室が並ぶ真っ直ぐな通路を歩いた。この辺りが夜になると一番淋しい場所だ。二階の渡り廊下から研究棟へ移る。化学関係の実験室が並んでいる。どこも煌々《こうこう》と明かりが灯っていた。  そこを抜けて、通路を遮《さえぎ》っている鉄の扉を引き開ける。この扉は万が一の爆発事故に備えた防火扉である。ここからが建築学科だ。部屋の明かりは、両側の天井近くの窓から漏れている。それでも、通路は非常に暗い。階段で三階へ上がる。まず、院生室へ向かった。同じ講座の仲間がいる部屋だ。  ノックなしにドアを開ける。手前にはゼミ用の大きなテーブル。奥に一人ずつのデスクがあって、どこにもパソコンの液晶ディスプレィがのっている。三人の顔がこちらを向き、萌絵を見て、みんな軽く頭を下げた。修士課程の男子が三人。こんな時間に仕事をしているなんて、真面目な連中だ。もうすぐ修士論文の締切なので、当然といえば当然であるが。  彼女は奥へ進み、一番手前のデスク、柘植《つげ》のディスプレィを覗き込んだ。実験のデータの分析図が表示されていた。 「あ、綺麗だね」萌絵は感想を言う。 「さっき、国枝先生にも言われました」柘植が嬉しそうに笑った。 「え、本当に?」萌絵は驚く。  国枝が「綺麗だ」と言ったとしたら、それは、関連データの相関係数が高いという意味であって、萌絵のように、造形や色彩が好ましいという意味ではけっしてない。言葉の定義が完全に違うのだ。しかし、萌絵が驚いたのは、そういった方面のことではなく、国枝が、こんな時刻にN大にいる、ということに対してだった。  その他、テーブルに散らばっていた図面をざっと見てから、彼女は院生室を出た。再び階段へ戻り、四階へ上がった。犀川の部屋の照明が灯っているのをまず確認。隣の部屋は暗い。そこはかつて国枝助手が使っていた部屋で、今は、図書と資料が収納されているだけで、誰も使っていない。  萌絵は、犀川の部屋の向かいのドアを開けて、院生室に入った。ここが、彼女が使っている部屋だ。しかし、実際に彼女がここへやってくるのは一週間に一度か二度。最近では、国枝が赴任したC大が、萌絵の仕事場になっているためである。  部屋には誰もいなかった。きっと、バイトにでも出かけているのだろう。戻ってこない場合には照明を消して、施錠することに一応はなっているものの、一晩中、鍵もかけずに、照明もつけっぱなし、ということも珍しくない。  彼女は自分のデスクへ行き、パソコンのキーに触れて、スリープから覚ました。そして、自分宛に出しておいたメールを読み込み、その添付ファイルを開く。  通路のドアの音が聞こえ、続けて院生室のドアが開く。入ってきたのは国枝桃子、そして、そのあとに犀川である。 「国枝先生、どうしてこちらへ?」萌絵は立ち上がってきいた。  国枝は、萌絵の質問には答えず、彼女のすぐ横まで来て、液晶のディスプレィを見た。 「貴女こそ、何をやっているの? 委員会、どうだった? 何か宿題が出た?」 「あ、いいえ。何も」 「時間を使わせて申し訳ないと思っているよ。で、論報の方は?」 「はい、大丈夫です。明日には、先生に見てもらえます」 「今日は、どうして駄目なわけ?」 「まだ計算中です」 「まだ計算しているの?」 「ええ、ですから、それで、こちらへ来たんです。ここの方が速いコンピュータが沢山余っていますから、今夜、空いているマシンを使って、一気に通そうと思って」 「そういうぎりぎりの仕事が、犀川研の伝統だ」犀川が言った。彼は部屋の中央に立っている。 「犀川先生、ちょっと、見てもらえますか?」萌絵は彼を見つめて言う。  犀川も萌絵のすぐ横へやってくる。萌絵は椅子に座った。二人の教官の方へ、彼女はディスプレィを向ける。 「県警から写真が届いています。全部で八枚でした。これが一番わかりやすいかと思います」そう言いながら、画面に写真を表示させる。 「何なの、これ……、レゴ?」国枝が言う。 「そうです」 「そうそう、こんなふうだったね。おもちゃの兵隊が作ってあった」 「それは、こちらです」  画面に別のウインドゥが開き、それが表示された。レゴ・ブロックで作られた人形である。  写真は、真賀田研究所の地下の一室で撮影されたもので、真賀田四季が残していった品物であることを、萌絵は国枝に説明した。国枝も六年半まえの事件のとき、妃真加島にいた。犀川研のスタッフが全員参加したゼミ旅行だったのだ。 「今頃、これが何だっていうの?」国枝がきいた。 「それは……」萌絵は犀川の顔を見る。 「うん、とにかく、まず、この個数を数えよう」犀川は言った。 「個数?」萌絵はきき返す。「何の個数ですか?」 「レゴの個数」 「え? 写真で?」 「そう」 「あ、それじゃあ、こちらのコンテナに入っている方ですね?」  萌絵は、最初の写真のウインドゥを前面に出した。ばらばらのブロックがプラスティックの容器の中に収まっている画像だ。 「こっちもだし、さっきの、人形の方も」 「え、でも、写真からでは正確にはわからないと思います」萌絵は言った。「あのぉ、もうすぐ実物が届きます」 「え、実物?」犀川は目を細める。「ああ、新藤さんのところへ行ってきたんだね? いつ、今日?」 「今日?」国枝が萌絵を睨みつける。 「まあ、いいや、正解は実物を待つとして、計算だけざっとしてみよう。構造的に成立する立体が作られているわけだから、内部の様子はだいたい想像できるだろう。頭を使えばね」 「どうして、そんなことを?」萌絵は首を傾げる。 「それ以外に、やることがない」犀川は答えた。  国枝が、横目で犀川を睨む。 「あ、それから、先生。ロバート・スワニィの失踪事件についても、取り寄せてもらうことにしました。三浦さんに頼んできました」 「ああ、ありがとう」犀川は頷く。 「ちょっと、よろしいでしょうか?」国枝が言った。「西之園さんでしたら、他にやるべきことが鬼のようにあります」 「鬼のように?」犀川が言葉を返す。 「山のように」国枝が応じた。 「いや、わかっている」犀川は片手を広げる。「忙しいなら、僕だけで楽しむことにするよ」 「あのぉ、私、やります。解析を通している間はフリーですから」萌絵はそう言ってから、上目遣いで国枝の顔を窺った。 「別に、私の論文じゃないからね。ドクタを取るのは、貴女だよ」 「はい」萌絵は頷き、そして微笑んだ。「大丈夫です」 「犀川先生も、いい加減にして下さい」国枝がメガネに片手をやって、犀川の顔に接近した。 「ああ」犀川は頷く。「久しぶりに良いブレーキングだ。最近、国枝君がいなくて、だらだらしていたんだよ。ありがとう」 「だらだら」萌絵は口にする。 「じゃあ、十五分後に」彼はドアの方へ歩く。「答合わせをするっていうのはどうかな?」 「ええ、そうしましょう」萌絵は躰を弾ませる。 「馬鹿みたい」国枝が言った。      7  ホテルのベッドの上で、各務亜樹良は窓を見ている。といっても外が見えるわけではない。二重にカーテンが引かれている。それがもしなくても、どうせ狭い中庭を取り囲む壁が見えるだけだ。バスルームでシャワーの音が続いていた。  彼女はベッドから足を下ろし、スリッパを探した。しかし、それはない。どうやら反対側のようだった。絨毯の上をつま先で歩き、クロゼットへ行く。扉を開け、保呂草のジャンパを探った。だが、どこにも固い手応えはない。すぐに戻り、椅子の背にかけられている彼のジャケットも調べてみた。こちらも同様、目当てのものはない。彼女は再びベッドに戻る。室温は高く、シーツを被らなくても寒くはなかった。それでも、彼女はそこへ躰を潜らせた。  おかしい。どこに隠したのだろう?  いつの間に……。  教会堂からの帰り道、レストラン、ラウンジ、それから、この部屋。  情景を頭に思い浮かべてみる。  身につけているはずだ。どこかに置いてきたとは思えない。  彼の場合、仲間がいる、ということも考えにくい。  いつも一人で行動する男だ。  誰かに手渡した可能性は低い。  おそらく、バスルームに持って入ったのだろう。  肌身離さずというわけか。  しかし、自分は何をしようとしているのか?  あれは、本ものだろうか?  エンジェル・マヌーヴァをもう一度、明るい場所で、ちゃんと眺めてみたかった。宝石の中を、レンズで覗いてみたかった。  バッグが小さな音を立てる。  ソファの上だった。  彼女は舌打ちをする。  急いでベッドから出て、そこへ駆け寄った。  バッグの中で携帯電話が振動していたのだ。  音はすぐに止んだ。電話ではない。  彼女はそれを取り出して、開いた。メールが届いている。  キーを押して、それを確かめる。  バスルームのドアが開いた。  彼女は、携帯を握ったまま、ベッドへ戻った。 「電話?」白いバスローブ姿の保呂草が出てくる。  彼は部屋を横断し、ソファに腰を下ろした。亜樹良のバッグが口を開けたまま、そこに残っていた。彼はそれを見ようともしない。  シーツを躰に纏《まと》わせ、亜樹良は俯《うつぶ》せになって、顔を枕に埋めた。目を瞑り、何も言わない。  保呂草が煙草に火をつける音。  しばらく、じっとしていた。  躰は疲れているかもしれない。痺《しび》れているかもしれない。  そんな重さを感じた。けれど、頭はクリアで、たった今見たばかりの小さな液晶画面の文字を思い浮かべていた。  そこに並んでいる数字は、明日の日付だ。  そして、そのあとに〈Mondovi〉、とあった。街の名前である。  突然、躰が重くなる。  シーツの上から、押さえ込まれた。  彼女は藻掻《もが》く。  しかし、手首を掴まれ、躰は押さえ込まれた。  ようやく横を向く。保呂草の顔は見えなかった。  体重が移動し、掴まれた手首が持ち上げられる。  彼女は、もう諦めていた。  携帯電話を取り上げられる。 「どいて」彼女は叫んだ。「悪党!」 「お互いに、こそこそするのはよそう」頭の後ろで、彼の声が近かった。髪に彼の顔が触れ、首筋に息を感じる。「モンドヴィに友達がいるの?」 「仕事の約束だよ」  彼は彼女から離れる。ベッドから下り、携帯電話をサイドテーブルに置いた。 「悪かった」彼はソファへ戻り、テーブルの灰皿にあった煙草を摘む。「武器を持っていると思ったんだ」  彼女はそのままの姿勢で動かなかった。溜息がもれるばかりで、躰はますます重くなった。  絶対にうまくいかない二人だ、と亜樹良は思う。      8  その週の土曜日に、犀川が萌絵のマンションへやってきた。レゴのブロックを見にきたのだ。餌で釣ったような気がしたものの、彼女は素直に嬉しかった。  一昨日の夜には、レゴのパーツ数を二人とも計算した。結果はほとんど一致していた。いよいよその正解がやってきたのである。研究では、このように正解が存在することは滅多にない。答合わせができるような事例はない、といって良いだろう。ただし、今回のことは、どう見ても単なるクイズにしか萌絵には思えなかった。  彼女の部屋の中に今二人はいる。  デスクには段ボール箱がのっていて、その中身が問題の品だった。宅配便で、今朝届いたばかりだ。 「三浦さんと昨日会ったよ」犀川が言った。 「え、そうなんですか。私も一緒にいたかった」 「真賀田博士の部屋の前に、守衛室があっただろう? あそこで、博士の部屋へ出入りする物品をすべてチェックしていた。その記録が警察に保管されているんだ」  それくらいは萌絵も知っている。 「何を調べたの?」彼女は尋ねる。犀川のことだ、きっと何か目当てがあったのだろう。 「だから、レゴだよ」彼は答える。  またレゴか、と萌絵は思った。どうも、核心はこれではない、という気がしてならないのだが、彼女は黙っている。  段ボール箱を床に下ろして、二人は絨毯の上に座り込んだ。まず、コンテナの中に入っているブロックを数えることにした。赤、青、黄色、緑、白、黒。色とりどり、サイズもまちまちのブロックが分類されて、並べられる。作業はたちまち終わってしまった。 「少ないですね。二百三十七個」 「七十九の倍数だ」 「何か意味がありますか?」 「いや」犀川は首をふる。彼はおもちゃの兵隊を指さす。「こっちが多い」  今度はその人形に取りかかった。そちらは、ばらばらにすることはせず、見えない箇所を確かめるため、必要最小限の分解にとどめた。腕、足、頭を外す。注意して、いつでも復元できる状態に整理して並べた。  腕も足も、内部は思ったとおりの構造である。長くて大きいパーツが使われているか、それとも、短くて小さいパーツが使われているか、体積は同一でも、それで個数に差が生じる。  胴体の中には、中空の部分があった。ここでも、計算との誤差が生じるが、犀川も萌絵も、ある程度の空間が空いていることは予想していた。構造的に考えても、それほど自由度があるとは思えない。 「なんだか、遺跡を発掘しているみたいですね」 「いや、遺跡を発掘したこと、ないから」 「楽しくないですか?」 「特に……」  犀川は真面目な表情である。あぐらをかいて座っていたが、おもちゃを真剣に触っている彼の姿が微笑ましい。 「あ、そうか、何か飲まれます? 持ってきましょうか?」 「いや、いいよ」 「煙草は?」 「ここは禁煙だろう?」 「本当はそうなんですけれど。でも、いいですよ」 「いや、いいよ」下を向いたまま犀川は答える。「この、レゴっていうの、遊んだことある?」 「私? いいえ。お友達のところで、少し触ったことはありますけれど」 「僕もないなあ。うちには、こういったおもちゃ類はほとんどなかったから」  兵隊の頭を分解することにした。黒い大きな帽子を被っている。 「これって、警察は分解したんでしょうか?」 「しないと思う」 「でも、指紋とかを採取したはずでしょう?」 「外側で見つかれば、中まで調べない」 「あら、ここにも空洞があるわ」萌絵はパーツを外しながら言った。兵隊の頭の中に空洞が見つかった。 「本当だ」 「あれぇ……、これだけ黄色ですね」  黒ばかりで造られた帽子の中に、ブロックが充填《じゅうてん》されていない空洞があり、その中央に一つだけ黄色のブロックが取り付けられていた。 「あ!」萌絵は声を上げる。「先生、ほら」  黄色いブロックの横に、文字が書かれている。油性のサインペンだろうか。顔を近づけないと読めないほど小さな文字だった。二行にわたって記されている。一行目は数字〈19.01.2001.〉で、とあり、二行目には〈MNDV,PMNT〉とあった。  文字を消さないように、そのブロックを取り外した。萌絵は犀川にそれを手渡す。 「最初の数字は、日にちですね」萌絵は言った。 「来週だ」犀川は呟く。「間に合ったか」 「間に合った?」 「でも、これを書いたのは、七年もまえでしょう?」 「うん」犀川は頷く。 「この、MNDVって、何かなぁ?」 「場所だよ」犀川は目を瞑る。「モンドヴィ、ピエモンテか」 「え?」 「たぶん、真賀田博士がまだ十代の頃に、行ったことがある場所だ。調べてみよう。シンポジウムか何かが開催された、とかじゃないかな」 「あ、はい……」  萌絵は立ち上がり、自分のデスクからノートパソコンを持ってきた。ソファにそれをのせて開き、犀川にも見える角度に向ける。 「これ、ネットにつながっているの?」 「ええ、エアマックで」萌絵は答える。無線のLANのことである。  萌絵はブラウザを立ち上げ、検索エンジンを呼び出したところで、パソコンをさらに犀川へ向ける。彼はキーワードとして〈Italia〉と〈Mondovi〉を入れてリターンした。次に、その条件で絞られた候補に関して〈symposium〉で検索させる。しばらくして、今度〈international conference〉はと打ち込んだ。国際会議を探しているのだ。  検索結果は数十に絞られた。犀川は画面をスクロールさせながら、それらを読んでいる。 「あ、これだ。七八年にコンピュータ・サイエンスの国際会議が開かれている。おそらく、これに出席したんだね」 「えっと、どういうことなんですか?」萌絵はきいた。「先生、このブロックが出てくることを予測していたの?」 「いいや」犀川は首をふった。「煙草を吸って、良いかな?」 「あ、はい」萌絵は立ち上がってライティングビュロの引出を開けにいく。中から灰皿を取り出した。  犀川は煙草に火をつけ、深呼吸をするように煙を吐き出した。 「まさか、こんなものがあるなんて、思ってもいなかった。びっくりだ」犀川は冷静な口調で言った。びっくりしているようには全然見えない。「僕は、単に、レゴの数が問題だと考えていた。だから、これがもともと幾つあったのか、調べたんだ」 「え? もともと?」 「そう」犀川は頷く。「守衛室にそのリストがあった。これは、新品のセットで購入されたものだ。だから、製品番号から、どれだけパーツが入っているセットだったか、調べてもらった」 「わかったんですか? それじゃあ、わざわざ数えなくても、それが正解だったんですね?」 「うん、でも、全然足りない」 「足りない?」 「僕たちが計算した数よりも、ずっと多かった。三百個以上、なくなっているんだよ」 「ああ、そうか……、遊んでいるうちに、なくなってしまったんですね?」 「なくならないよ、そんなに」 「え、じゃあ、捨ててしまったのか」 「そう、その可能性か、あるいは……」 「あるいは?」 「真賀田博士が、持ち出したか?」 「持ち出した? えっと、どうして? レゴなんか持ち出して、どうするんです? 三百個も……」 「とにかく、そっちがメインのメッセージだと踏んでいたんだけれどね」犀川は煙を吐き出す。「そうか、こんなことだったら、すぐにでも、中を開けたら良かったんだ」 「でも、あのとき、これを開けても、七年後の日付なんか、問題にしなかったんじゃありません?」 「何だろう? とにかく、僕たち凡人とは、時間の流れが違うみたいだ」 「あれ? 真賀田博士なら、時間は普通よりも速く回っているんじゃありませんか? 七年後なんて悠長なこと、するかなあ。警察だって、たとえこれを開けていても、どうすることもできませんよね」 「だけど、今なら、できる」 「何ができるんです?」 「西之園君、パスポートは持っているよね?」 「はい」 「じゃあ、来週、イタリアへ行こう」 「え?」 「来週は、教室会議があるけれど、まあ、いいや」 「えっと、先生と、二人で?」 「そうだよ」 「本当に?」 「チケットを取らないと」 「えっと、あの、イタリアのどこですか?」 「だから、モンドヴィ」 「どこら辺ですか?」 「うーん、トリノの方だね」 「うわぁ」萌絵は手を合わせる。「婚前旅行ですね」 「え?」 「いえいえ、何でもありません。そのまえに結婚する手もありますし」 「しかし、良かった。ぎりぎりだ」 「長かったですよねぇ」 「そう、六年半、七十七ヵ月だからなあ」 「ホント、長かったわぁ……」 [#改ページ] 第4章 時間変化率の不連続性 [#ここから5字下げ] 汽船が魔法のかたつむりのように、山々のあいだをぬってきますと、時おり旅びとがこの聖堂へやってきます。そして、この円天井の霊廟をおとずれて、王たちの名前をたずねます。しかし、それらの名は、その人の耳に忘れられたもの、死んだものとしてひびくのです。 [#ここで字下げ終わり]      1  雪が積もっていた。  どうも、夏のイメージしかなかったイタリアだったが、現実はとても冷たい。萌絵は白いコートに白いマフラ、ブーツはベージュのロング。しかし、ついさきほど一度|滑《すべ》って転んでしまった。  犀川は、もう十三回も「寒いなあ」と口にした。茶色のダフルコートを着ている。日本にいるときと同じだ。違うのは、空港で買ったトリコロールの派手なニットの帽子を被っていることくらいである。  ミラノに飛行機が到着したのが昨日。トリノまで電車で移動。信じられないくらい車内が汚かった。そこでホテルに一泊。なんと、犀川と同室である。思い出しただけでにやけてしまう。しかし、残念ながら、夜はぐっすり眠ってしまった萌絵だった。飛行機の中でずっと起きていたのがいけなかったのだ。彼女は猛烈に反省していた。体調はまずまず。勝負はまだこれからだ。焦らずにいこう、と気を引き締めた。  モンドヴィへは車でやってきた。  想像していたよりも、田舎である。雪が歩道に寄せられ、車はのろのろと走っていた。高い建物は少ない。人工物はどれも、土色というか、石色というのか、自然のままの色彩で、ところどころに見られるペイントも悉《ことごと》く色褪《いろあ》せている。どうも、街の中心ではなく郊外へ向かっているようだった。 「こんな田舎で国際会議があったのですか?」タクシーから降りたところで、萌絵は犀川に尋ねた。 「国際会議って、だいたいは田舎でやるんだよ。どういうわけか。ニューヨークとかロンドンでは、あまり聞いたことがない」 「それは、私たちの分野が、そうだからでは?」 「どうかな」犀川は煙草に火をつける。「しかし、寒いなあ」  十四回目だ。確かに、トリノよりもいっそう気温が低かった。今日はこの街に泊まることになっているが、まだホテルは決まっていない。  道路の向こう側は森である。柵はないので、公園ではないだろう。道は、緩やかに上っている。土壁か石積みの壁が、歩道と私有地の境目に連なっていた。 「今日ですよね」萌絵は言う。レゴに書かれていた日にちのことだった。「何が起こるんでしょうか?」 「さあね」 「モンドヴィのどこかは、わかりますか?」 「わからないけれど、きっと有名な場所だろう。ここは、フランス革命のとき、戦場になったんじゃなかったかな?」 「いいえ、知りません。叔母様が詳しいんですけれど。あとで、電話できいてみましょうか?」そんなことをしなくても、ネットで検索すれば済む話だ。言いだしたものの、睦子叔母に電話だなんて、ぞっとしない。「お腹が空きましたね」 「そう?」犀川は時計を見た。「そうか、もうお昼過ぎか」  犀川の荷物は信じられないほど小さい。毎日大学に出勤するときとほとんど同じくらいの軽装だった。萌絵も、極力荷物を少なくしたつもりだが、それでも、タイヤ付きのトランクを転がさなくてはならなかった。今は、それを犀川が持ってくれている。それ以外にも、彼女はショルダ・バッグを一つ掛けていた。 「さきに、泊まるところを見つけて、そこに荷物を預けた方が良くないですか?」犀川は煙草を吸いながら歩いているが、返事をしなかった。  しばらく黙って歩く。  真賀田四季が、ここにいるのだろうか。  彼女には、できれば会いたくない。  しかし、犀川が一人で彼女と会うよりは、自分が一緒の方がずっとましだ、と思う。その差はかなり大きい。自分一人が四季と会う、といったシチュエーションは想像できない。それはもう生理的に受けつけられない。考えただけで気持ちが悪くなってしまう。だから、四季のことはあまり考えたくなかった。  それでも、現にこうしてリラックスしていられるのは、やはり犀川が近くにいるからだろう。それに、この三年間の平穏もある。まさか今頃になって、四季が自分たちにまだ会おうとするとは考えにくい。何かの手掛かりか、それとも品物が、どこかに隠されている、そんな宝探しのような楽観的映像しか、萌絵にはイメージできなかった。 「ねえ、先生?」萌絵は犀川の手を掴んでいた。掴んでいないと、彼がどんどん先へ行ってしまうからだ。 「何?」 「そもそも、どうして、急に思いつかれたのですか?」 「ブロックのこと?」 「ええ……。えっと、あのとき、儀同さんが、真賀田四季の話をされて……」 「スワニィ博士の名前が出たからだよ」 「ああ、そうでしたね。でも、どうしてですか?」 「なんとなく、そっち方面だと感じていたんだ」 「そっち方面って?」 「バイオ・テクノロジィ」犀川は答える。「真賀田博士が、そちらの方面へ行った、という、つまり方角だね」 「そっちに、何があるんですか?」 「さあ、何だろう? でも、あの研究所には、それがなかったんだよ」犀川は言う。「コンピュータ・サイエンス。あとは、メカトロニクスに関するものしかなかった。その分野にいるうちは、あそこから抜け出る必要なんかなかった。あの地下室で、充分に活動できたはずだ」 「それじゃあ、他分野へ進出するために、あそこを抜け出した、ということですか?」 「そう」犀川は簡単に頷いた。彼は立ち止まり、ポケットから吸い殻入れを取り出し、煙草を消した。「それには、何を持ち出す必要があるだろう?」 「持ち出す?」萌絵は首を傾げる。「少なくとも、レゴなんか持ち出さなくても良いのでは?」 「うん、レゴで何かを作ったんじゃないかな」 「え? どうして、レゴなんかで?」  犀川はまた歩きだした。      2  石畳の坂道の途中にあるカフェの窓際で、各務亜樹良は溜息をついた。  自分はいったい、何を迷っているのだろう。  もう、諦めるしかない。  テーブルの向こうに、保呂草の顔がある。こんなに近くにいる。彼女をじっと見つめていた。 「話すことにする」亜樹良は小声で言った。言葉にしてから、彼女は最後の決心をした。「ホント、貴方には根負けする。気が長いよね」  保呂草は無言で僅かに肩を竦める。 「メールは、確かに真賀田博士からです」亜樹良は頷いてみせる。「けれど、これを他人に教えたことがわかったら、私の命がなくなるってこと、わかるよね?」  保呂草は頷いた。 「理解してほしい」 「理解した」 「三年まえに、真賀田博士に会った」亜樹良は言った。「また、一緒に仕事をしないかって誘われて、ええ……、どうしようかなって考えたけれど、そろそろ人生も終盤だし、滅多《めった》にない特別なものが見られるなら、自分のこの目で見てみたいって思った。これでも私、一応、もの書きなんだからね」 「どうして、それを僕に言わなかった?」 「真賀田博士は、貴方のことを知っている。私と貴方のことをちゃんとご存じなのよ。だから……、貴方が面倒なことになるのを避けたかった」 「僕が、彼女の首を絞めて、縛りあげたことがあるからかい? 確かに、仕返しされても文句はいえないな」 「以前よりもずっとガードは固くなっている」亜樹良は説明する。「CIAだってついているし、もう、あの人には、巨大なスポンサも、強力なバックアップもあるの。絶対に、手を出しちゃ駄目。簡単に消されるよ」 「手を出す? 残念ながら、そんな趣味的な問題じゃない」保呂草は言った。「わかった。君が話してくれたから、僕も話そう」  亜樹良は、顎を引き、相手を見つめる。  彼は身を乗り出して、テーブルに片肘をついた。 「実は、今日モンドヴィに来ることは、三年もまえから知っていた。これは、真賀田博士が、七年まえに決めたスケジュールなんだ。知っていた?」 「いいえ」 「真賀田研究所を抜け出したとき、彼女は、今日の予定を掲示板に書いていった。あとから来る奴が読めるようにね」 「掲示板?」 「おもちゃの兵隊だ、レゴで作った」 「レゴ?」 「真賀田博士が自分の部屋に残していった品物を、僕は全部調べた。彼女はメモを一切残していない。そもそも文字を書かなかったらしい。それに、おもちゃで遊んだりもしない、と君は話していたね」 「ああ、ええ。でも、研究所のときは、お嬢様がいたから……」 「そう、みんな、レゴはそのためのものだと考えていたみたいだ。だけど、彼女はもう十四歳だった。兵隊の人形を作ったりするかな?」 「何か、そこにあったの? レゴが怪しいと疑ったわけ?」 「いや、他にも、パッチワークの作品が沢山あったから、それも全部調べてみた。どこかに何かが縫い込んでないかって。でも、結局、レゴの人形の頭の中に、メッセージがあった。二〇〇一年の一月十九日、モンドヴィでって……」 「何があるの?」 「さあね。それはこっちがききたい」 「ちょっと待って」亜樹良は額に指をつける。「その、レゴのメッセージは、誰に宛てたもの? まさか、貴方が読むなんてことを想定したわけじゃないでしょう?」 「気づくとしたら、瀬在丸紅子《せざいまるべにこ》か、それとも……」保呂草はそこで少し笑ったように見えた。「七年まえの夏に、真賀田研究所にいた、彼女の息子か」 「ああ、彼か……。気づくと思う?」 「さあね……」 「なるほど。貴方はつまり、彼のことが心配だったんだ」亜樹良は言った。「だったら、来させないようにすれば良かったのに」 「どうやったら、そんなことができる?」 「たとえば、そのメッセージを始末してしまえば?」 「その時点では、僕だって知らなかったんだ。全体が見えてきたのは、つい最近のことでね」 「彼に直接事情を話せば良かった。行くなって」 「それを話したら、絶対に行くだろうな」保呂草は首をふった。 「彼に危険があると思う?」 「それが、僕が知りたかったことだ。真賀田博士が何を考えているのか、僕には興味はない。友人に危害が及ぶのを防ぎたいだけだよ」 「私には、わからない」 「もちろん、僕以上に、彼は知っているはずだから、覚悟はしていると思うけれど」 「こちらへ、来ていると思う?」 「来ている」保呂草は頷いた。「それくらい、簡単に調べられるよ。航空会社へ電話をかければね」  3  犀川はだんだん無口になった。もともと、無口なのだから、もうほとんど口をきかない、返事もしない状態だ。古い教会堂の中へ彼は入っていく。どうやらそこが目的地のようだった。  外側は、工事の足場に覆われていた。修復中のようだ。小さな建物に見えたが、近づくとそれなりに大きい。いつ頃のものなのか、犀川に尋ねたけれど、答は返ってこない。デザインはどちらかというと、質素でシンプルな印象だった。  トランクを引きながら、その礼拝堂の中を歩いた。観光客がちらほらといる。ミラノに比べれば、淋しいほどだが。  周囲に人が多くなると、萌絵は緊張した。どこかに紛《まぎ》れて、真賀田四季がこちらを見ているのではないか、と思えたからだ。  犀川は、インフォメーションを見つけ、そこで宿屋の情報を仕入れてきた。 「ここの隣が、ホテルだそうだ」 「隣? そんなもの、ありましたっけ」少なくとも高層の建物は、この近辺では見かけなかった。嫌な予感がする。 「電話をしてもらった。部屋は空《あ》いているそうだ。この季節は、どこもそうなんだろう。さきに荷物を置きにいこうか」  犀川とのコミュニケーションが復旧したので、少し元気が出てきた。  三階建ての古い宿屋だった。木造か石造か、よくわからない。床は傾き、階段は磨《す》り減り、ぎしぎしと煩《うるさ》いほど音を立てた。一階に狭いフロントがあって、荷物を預かってもらうことにする。まだ部屋は使えない、と言われたからだ。その代わり、狭い階段を上がったところに共有の応接スペースがあって、暖炉の周りに椅子が置かれている。そこで休憩することになった。残念ながら、食べるものも、飲むものもない。空腹を感じたけれど、それは既に一度口にしたことだったので、二度は言えない、と思って萌絵は我慢した。犀川はたぶん、食事のことなど忘れているのだろう。  彼女は窓際へ行き、窓の外を眺める。表通りを歩く人たち、通り過ぎる車、向かいの森林の前に停まって作業をしているゴミ収集車、その手前に立っている男女のカップル、などを見た。  犀川は椅子に座り、インフォメーションでもらった地図を広げている。 「何時頃なんでしょう?」萌絵はきいた。 「何が?」犀川は顔を上げずにきき返す。 「ですから、その、約束の何かがどこかで起こるっていう、イベントは」自分で発言して、そのイベントという単語が、妙だった。「実のところ、今日、この町で、ということしか、わからないのでしょう? そうなると、何か誰にでもわかるような、目立つ、大きな事件が起こらないかぎり、どこへ行けば良いかさえわかりませんね」  萌絵がそう言い終わらないうちに、サイレンの音が聞こえてきた。  彼女は再び窓の外を見る。表の道路を紺色のアルファロミオが走り抜けていく。右手へ行ったところで、Uターンをして、道路の向こう側の歩道に乗り上げた。他にもまだサイレンがどこかで鳴っているようだ。 「近くみたいですよ」萌絵は犀川に言う。  彼も立ち上がって窓の外を見にきた。既にパトカーの方へ人が集まり始めている。 「行ってみますか?」 「うん」      4  宿屋を出て、道路を横断した。既にパトカーは二台になっていた。二十人ほどの人間が集まっている。犀川と萌絵はそちらへ近づいていった。  道路の反対側からは見えなかったが、歩道と空地の間に、幅が二メートル弱の用水が流れていた。誰かがその溝の中に倒れているようだ。黒っぽい服装しか見えない。浮浪者だろうか。姿勢からして、生きているとは思えなかった。  遠くでサイレンが鳴っている。こちらへ近づいている別のパトカーだろう。野次馬は増加する一方だ。警官たちは用水の中へ下りようとしている。底を流れる水の深さは十センチほどしかない。 「戻ろうか」犀川は教会堂の方を気にしていた。「これは関係なさそうだ」 「そうですね」萌絵は頷いた。  二人が人の間を抜けて歩きだそうとしたとき、歩道の反対側から走ってきた子供が、犀川にぶつかった。  まだ小学生くらいだろうか。少年はバランスを崩して一度地面に片手をついたが、すぐに立ち上がって、今度は道路の方へ飛び出していった。 「あ!」犀川がポケットに手を入れて叫ぶ。「やられた」 「え? どうしたんです」 「こら! 待て!」犀川は日本語で叫び、既に駆けだしていた。  何かをすられたのだ。萌絵も彼の後を追った。  道路を横断し、少年は教会堂の敷地へ入っていく。塀の陰になって姿が見えなくなった。犀川も、道路を横断している。萌絵は、自動車を一台やり過ごしてから、全力で走った。  彼女が教会堂の広場へ駆け込むと、少年は入口の階段のところで、長身の男に腕を掴まれ、地面に座り込んでいた。犀川がそこへ駆け寄ったところだ。萌絵も遅れて到着した。  長身の髭の男が少年の目の前に手を広げると、彼は犀川の財布をその手の上に差し出して、高い声で何か言った。  その髭の男の後ろに、サングラスをかけた髪の長い女性が立っていた。  男は、財布を犀川に手渡す。犀川は英語でお礼を言った。 「あれ、貴方」萌絵は髭の男に近づく。男は顔を背けた。「ちょっと、すみません」萌絵は彼にさらに近づいて顔を見る。「あ! 秋野《あきの》さん!」  萌絵は素早く男の手を掴んだ。彼は舌打ちして顔をしかめる。 「だから、やめておけって言ったんだ」後ろでサングラスの女が吐き捨てるように言う。「ちょっとちょっと、あんたもあんたでしょう。助けてやったのに、何なの、礼儀知らずだね」 「この人、泥棒なんです」萌絵ははっきりとした口調で言った。 「し」髭の男は口に指を当てる。 「良かったよ、周りに日本語のわかる奴がいなくて」女が笑いながら言う。 「どうして、こんなところにいるの?」萌絵は続ける。「エンジェル・マヌーヴァを返しなさい!」 「ちょっと、待った」髭の男は片手を広げる。「君ね、何か、誤解している」 「いいえ、誤解なんかしていません。どうしよう、ううんと、あ、向こうにお巡りさんがいたわね」 「あれ? 保呂草さん?」犀川が呟く。 「あらら」女が上を向いて溜息をついた。 「本当に?」犀川の声が少しだけ大きくなった。 「ありがとう。覚えていてくれて」髭の男が口を斜めにした。 「え? 先生、この人を知っているんですか?」萌絵はきいた。 「ああ、うん。昔から」 「泥棒ですよ、この人」 「いや、何かの間違いだと思う」犀川は言った。歯切れが良くない。「西之園君、とにかく、落ち着いて」 「落ち着いています」萌絵は彼の手を放した。「ホロクサ? それが本名?」 「いや、違う」男は手を広げる。「覚えなくてもいいから」 「もう、ここで会ったが百年目ですからね」 「いやいや、まだ百日も経っていない」 「それよりも、ねえ、皆さん」後ろの女が話した。「さっきの子がなんて言ったか、聞いてた? 地下へ行けって」 「え、そう言ったんですか?」犀川がきいた。彼は教会堂の入口の方へ視線を向ける。「そうか……」 「貴女は誰ですか?」萌絵は女に近づいた。 「そういうときはね、自分がまず名乗るべきじゃない?」 「私は西之園です。こちらは犀川先生」萌絵は早口で言う。 「こんにちは、犀川先生」女は頭を下げた。「真賀田博士から、お噂は伺っております。私は、各務と申します」 「はじめまして」犀川が頭を下げる。「とにかく、中へ入りましょう」 「待って。この人たち、信用できますか?」萌絵は犀川の腕を掴んだ。「何かの罠《わな》かもしれません」 「罠って……」各務が吹き出した。「どうでもいいけれどさあ」  近くには誰もいなかった。みんな、道路の向かい側へ見物に出ていったのだろう。四人は教会堂の正面のステップを上がり、建物の中へ入った。  さきほどに比べると、見物客がずっと少ない。 「地下室って、どこから行くんだろう?」各務が呟いた。 「たぶん、向こうです」犀川が先へ歩いていく。  三人は彼に従った。萌絵はなるべく一番最後を歩いた。不審な二人に背後へ回られるのが嫌だったからだ。  回廊の隅の奥まったところに、建物の側面への出口があった。その手前に階下へ向かう階段が見つかった。手前にロープが張られている。そこに掛かったプレートに文字が書かれていたが、おそらく立入禁止の意味だろう。英語ではない。周囲には誰もいなかった。  犀川は辺りを見回し、ロープを跨《また》ぐ。保呂草が続き、各務も階段を降りていく。萌絵も周囲を見回してから、最後にロープの中に入った。  階段は急で、しかも幅が狭い。ステップは木製だが、周囲の壁は石積みである。下へ行くほど暗かった。  途中で向きを二回変えて、さらに降りる。最後のコーナを曲がると、小さなライトが灯っていた。そこに木製の大きなドアがある。ここにもプレートが張られていたが、萌絵には読めない。誰も口をきかなかった。  犀川はドアの取手を掴み、それを引いた。  小さな音を立ててドアは開く。湿った空気が流出し、土の匂いだろうか、僅かに有機的な、不思議な匂いが立ち込めた。  中は非常に暗い。  一人ずつ中へ入った。ドアの外側にあるライトの光しか近くにはない。したがって、ドアを閉めれば真っ暗になるだろう。奥がどれくらいまであるのかさえ、よくわからなかった。 「ドアを閉めて」突然内側から優しい女性の声。日本語だ。奥から聞こえた。洗練された発声が、地下室に響く。聞き覚えのある声だった。  萌絵が躊躇《ちゅうちょ》していると、各務が振り返ってドアを閉めた。  光は完全に遮断された。  冷たい暗闇。  萌絵の鼓動は速くなる。彼女は犀川がいた方向へ一歩近づいた。 「ようこそ」真賀田四季の声が聞こえた。  それと同時に、ほんのりと、前方に光が現れる。  最初は小さかった。  まるで、宙に浮いている炎のようだった。  距離がわからない。ピントが合わない。  それがしだいに大きくなり、やがて、白い衣装の女性の姿だとわかる。さらに大きくなって鮮明になった。  髪は長く、流れるように真っ直ぐ肩に落ち、背中へと続く。上半身だけしか見えなかった。やや下を向いていた顔が僅かに持ち上がり、青い瞳がこちらを向く。  三メートルほどの距離に思えた。  だが、それは実体ではない。  どこかから映写された像だ。  萌絵は腕を伸ばし、犀川を手探りで探し当てる。 「先生」彼女は小声で確かめた。  さらに犀川に近づき、彼の腕に両手で掴まった。  犀川のもう一方の手が、彼女の手に触れる。  萌絵はそれを握り返した。  似ている。  以前にも、これと同じ暗闇があった。  今は、ここに、犀川が存在していることが心強い。  今回は絶対に離れない、と彼女は決意する。 「大丈夫だ」犀川が囁いた。「ビデオだよ」  萌絵はすぐに冷静さを取り戻していた。映像の真賀田四季は、三年まえの彼女と、どこも変わっていない。いつ撮影されたものだろうか。最近の彼女だということを示す部分もなさそうだった。  五秒間ほどの沈黙のあと。 「お話ししておきたいことが三つあります」真賀田四季は少し横を向いて話を始めた。「何故なら、そちらからアプローチしてきた点が評価できるからです。理解に必要な最小限の条件とは、理解しようとする意志、そして決意。よろしいですか? まず第一に、私の娘の死因です。彼女は事故で亡くなりました。実験中に感電したのです。突然のことでした。これが一点。誤解を防ぐために申し上げますけれど、特に、私は、自分の立場を弁解する必要性を感じませんが、この程度のことで、誤解がもし解けるのならば、理解しようとする意志に対しては、最小限の誠意を示そうと思う、それが真実を打ち明ける理由です。私は、亡くなった娘のために、あそこを出たのです。よろしい?」 「嘘だわ」萌絵は呟いた。暗闇の中で首を左右にふっている自分を認識する。 「第二点は、その事故が、娘の意志によるものだった、ということです。これには確証はありませんけれど、彼女の心理を分析すると、そこへ行き着きます。おそらく自らの意志で、自分の躰を電流に曝《さら》したのでしょう。あくまでも、私の推測です。犀川先生、そこにいらっしゃいますね?」  犀川の躰が動く。萌絵はその腕に必死で縋《すが》りついた。  絶対に放してはいけない。  どんなことがあっても、絶対に……。 「さて、第三点。私は泣いたことがない、と貴方に言いました。覚えていらっしゃるかしら? ここだけのお話ですけれど……」彼女はそこで少し笑った。「あれは嘘です。私だって、涙が流れることがありますのよ。化けものではないのです。では、どうして、あんな嘘を貴方についたのでしょうか? 不思議ですね。自分でも実に微笑ましいと思っています」  四季は、こちらを向き、一度上へ視線を送り、それから少しだけ首を傾げ、再びこちらを見た。  今までに感じたことのない、それは優しい表情だった。 「私は、娘の死体を切り刻んだ」彼女は微笑んだままだった。「彼女を救うために」 「どうして?」萌絵の口から言葉がもれる。 「どうして、どうして、それを言うのが人間」四季はくすっと吹き出し、白い歯を見せた。「可笑しい。本当に、人間って面白いわ。私は、もう皆さんとは違う世界へ旅立っています。この世にはいません。おそらくは、あなた方とお会いすることは、もうないでしょう。ですから、今お話ししたことは、私自身に対する弁解ではありません。強《し》いて言うならば、皆さんの中に存在している真賀田四季を、少しだけ弁護させてもらった。それだけです。つまりそれは、あなた方自身に対する援助、でもあるのです。救済あるいは博愛……、理解の形は何でもけっこうです。ご理解いただけるかしら?」  萌絵が見ている四季は、三年まえとも、あるいは六年半まえのときとも、変わりがなかった。その美しい女性は、完璧なバランスを保ち、年齢も人種も、あるいは性別さえも超越した印象を備えている。人間として、完璧な形なのだ。  だがしかし、今、初めて、萌絵は彼女が女性だと感じた。あるいは、そこに母性を見たような気がした。これはおそらく、自分の方の変化に起因したものだろう、と萌絵は考える。 「さて、人類はどこまで豊かになれるでしょうか」四季は話す。「自身の中に、どれだけの自由を取り入れることができるかしら。時間と空間を克服できるのは、私たちの思想以外にありません。生きていることは、すべての価値の根元です。では、どうか心安らかに……」  四季の姿はフェードアウトした。  暗闇が再び空間を充填する。  後方で物音がした。  振り返っても、何も見えない。 「ドアを開けよう」保呂草の声。  明かりが差し込んだ。ドアを開けたのは各務だった。  柔らかい、黄色い光が温かく感じられる。  萌絵は黙って、まだ犀川に躰を寄せていた。  自分は息をしている、と彼女は気づく。  犀川の体温も感じられた。  自分の手は、指は……、ちゃんとここにある。  自分の躰も、ここにある。  自分はばらばらではない。  呼吸。  呼吸。  そして、溜息。 「良かった」彼女は口の中で呟く。「本当に……、良かった」  犀川の腕を、彼女は掴み直した。  そして、彼を見上げる。  犀川の片手が動き、萌絵の頭に軽く触れた。  子供を撫《な》でるように、その手が数回往復した。  嬉しい。  目を瞑った。  自分は救済されたかもしれない、と彼女は思った。      5  四人は暗い階段を上がり、地上階へ戻った。幸い、ロープを跨ぐところも、誰にも見られずに済んだ。依然として、礼拝堂は閑散《かんさん》としている。萌絵は高い楕円形《だえんけい》のドーム天井を見上げた。今まで気づかなかったが、宗教画が描かれている。さらに、目の錯覚を誘うような幾何学《きかがく》的な模様も方々にあった。  原色の細かい光がステンドグラスを透過して届く。  祭壇の横を通り、並んだ木製のベンチの一つに彼女は座った。 「大丈夫?」犀川が横に立つ。 「はい」萌絵は顔を上げて微笑んだ。 「いやぁ、懐かしかったな」少し離れたところに立っている保呂草が低い声で呟くように言った。「僕が知っている彼女は、まだ本当に少女だったからね」 「いつ会ったの?」萌絵は彼に尋ねる。 「二十年以上まえになるかな。いや、もっとまえだなぁ。彼女が両親を殺した、あの事件の、さらに一年くらいまえになる。那古野の郊外の遊園地だった。西之園さんは、生まれていたかな?」 「生まれています」 「しかし、たったこれだけのことのために?」保呂草は、各務を一瞥《いちべつ》した。「わざわざ、あれを準備して?」 「重要なことをおっしゃっていた」各務はそう言って、サングラスをかける。彼女は厳しい表情だ。周囲に注意を向けている様子だった。  もう一度、地下へ下りていって、セットされていた映写機などをちゃんと調べてみたかったが、しかし、調べても、何もわからないだろう。当然ながら、それくらいは予測されているはずだ。 「あの、ここでもう別れよう」保呂草は犀川に言った。「また、きっと会える」彼は片手を出す。犀川がそれを握った。 「ちょっと、ちょっと待って下さい」萌絵は立ち上がった。 「いや、西之園君」犀川が片手を広げて彼女を制する。「ここは、僕に免じて……。財布が戻ったのも、保呂草さんのおかげなんだし」 「あの少年、もしかしてグルなんじゃありません?」萌絵は保呂草を睨みつけた。「どうしよう。だって、この人は……」 「ああ、そうか」犀川が少しだけ目を細めた。「いつだったか、あのときの、西之園君の電話が……。つまり、保呂草さんだったんですね。エンジェル・マヌーヴァ」 「お母さんから、聞いている?」保呂草は犀川に尋ねた。 「そう。ずいぶん古い記憶だけれど」犀川は頷いた。 「じゃあ、彼女に、説明してあげて」保呂草は萌絵の方へ片手を振った。「僕は弁解しない」 「どんな理由があるにせよ、窃盗《せっとう》は窃盗です。許しませんよ」 「しかし、君は、真賀田四季を許そうとしているじゃないか」保呂草は言った。 「え?」萌絵は驚いた。頭の中に一瞬、閃光《せんこう》が瞬いた。「いいえ、私は……」 「それに、別に僕は、許してもらうつもりはないよ」保呂草は微笑んだ。「僕自身だって、僕を許したことはないんだ」  保呂草は振り返って各務を見た。サングラスの彼女は、いつの間にか、出口の方へ移動して、遠くから、こちらを眺めていた。 「じゃあ」保呂草は片手を広げる。  犀川は軽く頭を下げた。萌絵は黙っている。  保呂草は歩いていき、各務の横を通って、そのまま教会堂の外へ出た。柱にもたれていた各務も動き、彼に従って光の中へ消えた。 「古いお友達なのですか?」萌絵は犀川にきく。 「知り合い」彼は短く答えた。      6  保呂草と亜樹良は、教会堂の前の道路を横断した。人集《ひとだか》りは何倍にもなっている。パトカーが三台、それに救急車も停まっていた。二人は、その人混みの中へ入っていく。  ちょうどロープを使って用水路から死体を引き上げているところだった。黄色のビニルシートが躰に巻かれ、上にいる警官四人がロープを引いている。 「ちょっと、見せてもらおう」亜樹良はそう言うと、集団の中から抜け出て、警官たちの方へ近づいた。  保呂草は一瞬|躊躇《ためら》ったものの、彼女についていった。  亜樹良は、警官たちに話しかけ、コートの内側から、身分証明書のようなものを取り出して見せた。太った警官がこちらへやってきて、それを受け取ってしげしげと眺めた。それから、無言で首を横に一度倒した。話が通ったようだ。亜樹良は振り返り、保呂草に目で合図した。  引き上げられた死体は、今は地面に置かれている。警官がビニルシートを捲って、中を見せてくれた。亜樹良は跪《ひざまず》き、その男の顔を間近に見る。保呂草も彼女の後ろに立って、それをじっと観察した。  亜樹良はやがて立ち上がると、首を横にふった。警官に礼を言ったようだ。太った警官にも、声をかけ、二人はその場を離れた。  人混みを離れ、歩道をしばらく歩く。保呂草は途中で何度か、後ろを振り返った。 「何の身分証明書を持っているの?」歩きながら彼は尋ねる。 「内緒」亜樹良は答える。 「いいなあ、僕も欲しいな、そういうの」 「あれが、誰かわかった?」 「ああ」彼は頷く。「本人かどうかはわからない。でも、似ている男を知っている。だいぶ人相が変わっていたけれどね」 「何でも知っているのね。どこで会った?」 「同じだ。例の遊園地だよ」保呂草は答える。「あのとき、真賀田博士は、君と会ったあと、あの外国人と会った」 「よく覚えている」 「ドクタ・スワニィ?」 「ええ、間違いない」 「死因は、何て言ってた?」 「見たところ、大きな外傷はないって」 「じゃあ、酔っ払って、あそこに落ちたのかな」保呂草は言った。「しかし、よりにもよって、どうしてあんなところに?」 「たぶん……」亜樹良はそこで言葉に詰まった。 「たぶん?」 「私に対する警告だね」亜樹良はちらりと保呂草を見る。「私も、殺されるかもしれない」 「どうして、そう思う?」 「いいえ、わからない」亜樹良は首をふった。 「もし、秘密の情報を知っているから殺される、というならば、君はとっくに殺されているはずだよ。僕なんかとおしゃべりするまえにね。君がまだ何かを隠しているか、それとも、全部僕に話してしまったか、そんなことは、外部からは見分けがつかない」 「そうね」亜樹良は頷く。 「もし、ドクタ・スワニィが口を封じるために殺されたんだとしたら、それは、君が知らない情報を彼は知っていた、という意味だ」 「早めにお払い箱になって良かった、ということか」亜樹良は鼻から息をもらした。「あぁ……、久しぶりに、真賀田博士の姿を見て、私……」彼女は目を瞑り、またそこで黙った。 「何?」 「恐くなった」亜樹良は立ち止まった。  保呂草は、彼女の片手を掴む。 「大丈夫だ」 「どうして……、歳をとるほど、死ぬのが恐くなるのかな?」  彼は亜樹良の肩に腕を回し、二人は緩やかな坂道を下っていった。 「フランスへ行こう」保呂草は囁く。 「どうして?」 「君のまえの旦那さんのお墓を見たい」 「何が目的?」 「そこに立ちたい」 「どうして?」 「ま、一種の、けじめってやつかな」      7  動物は食物を摂取しないと生きていけないことに、犀川もようやく気づいてくれた。宿屋の裏手から坂道を下っていくと、川沿いに古い建物が連《つら》なっている。その一角にレストランがあった。とても料理が期待できるような店ではない。客は二人以外に誰もいなかった。店員は太った老婆で、英語はほとんど通じない。二人はそこでサンドイッチ、スープ、サラダ、それに温かい飲みものを注文した。しかし、思ったとおりのものが出てくるかは賭《かけ》である。 「真賀田博士、自分はもうこの世にはいないって、言っていましたけれど、あれはどういう意味かしら?」萌絵は話した。「まえのときも、確か、同じようなことを言っていたわ」 「僕たちの社会、今現在の社会には、もう干渉しない、という意味だろうね」犀川は煙草に火をつけ、煙を吐き出した。「もともと、彼女はこの世にいないのかもしれない」 「あと、そう、お嬢さんを救うためだって……」萌絵は口をとがらせ、不満の表情をつくった。「そのために、切り刻んだって言いましたよね」 「そう」犀川は煙を吐きながら頷いた。 「説明していただけませんか? 先生は理解しているのでしょう?」 「どうして、僕が理解しているとわかる?」 「わかりますよ、そんなの」 「実は、とても不安定な理解でしかない」犀川は言った。「どうしてかっていうと、それを支える情報がないからだ。ようするに、立証はできないし、そんなことが可能かどうかも判断がつかない。けれど、それこそ、僕たちが凡人であり、そしてそれゆえに、真賀田博士の思考をトレースできない証拠でもある」  萌絵は首を傾げる。  料理が運ばれてきた。  見た目からして、美味《おい》しくなさそうだった。萌絵は、カップを手にとって、口に近づける。温度が心配だったが、まったく熱くなかった。  犀川は、サンドイッチをあっという間に一つ平らげた。 「食事中に話すのも、なんだけれど……」彼はカップを片手に持ち、一度溜息をついた。「つまりね、真賀田博士は、お嬢さんの細胞を持ち出したんだよ」 「え?」萌絵は驚いた。「細胞?」 「そうだ。生きた細胞だ」 「生きた?」 「そのための、冷却装置、すなわち小型の冷蔵庫みたいなものだけれど、その外枠に、レゴのブロックが使われた」  萌絵は息を止める。声も出なかった。 「組み立てるだけで四角い箱はすぐにできる。瞬間接着剤で固定すれば、強度的にも充分だろう。おまけにブロックは中空だから、断熱効果もかなり期待できる。小型のコンプレッサを内蔵して、バッテリィで駆動させた」 「そこに……、何を入れたの?」 「切断した、躰の一部だよ」  萌絵は、持っていたカップをテーブルに戻した。  あのときの情景が頭に過《よぎ》った。  腕のない死体。  脚のない死体。  ウェディングドレスを着た死体。  彼女は、その映像を瞬時に遮断した。  光、そして溜息。  犀川は、また煙草に火をつける。  煙、そして沈黙。  窓の外は、少し曇っていた。寒々しい鈍い光に包まれている。ときどき通り過ぎる人間は一様に背中を丸め、襟元《えりもと》に手を当てていた。  これが、人間の社会。  現時点の社会だ。  地下の暗闇に浮かび上がった、あの美しさ、あの洗練された生とは、確かに別の次元かもしれない。どちらかといえば、人間社会全体が、天才からは見捨てられた、という印象が強い。  しかし……、  自分の娘の躰の一部を持ち出したとは、これまで考えたこともなかった。  それは、あの研究所に、その分野の施設がなかったから?  娘を生かすために?  つまり……、  つまり……。 「まさか……」萌絵は顔を上げる。「そんなことが可能ですか?」 「可能か不可能か、という問題では、きっとない」犀川は鋭い視線を萌絵に返した。 「それを可能にする意志が、あるかどうかだ」 「意志?」 「その価値を認めるかどうか。そして、それを許すかどうかだ」  萌絵は首を横にふっていた。  ゆっくりと。  頭の中で、渦が起こる。  生命とは、何か?  生命とは、どんな価値を持つのか?  そういった疑問が、ぐるぐる回転する流れの中に、無数に混じっていた。 「おそらく……、三年まえには、既に、それに成功していただろう」犀川は話した。 「だからこそ、僕たちの様子を見にきた。まだ気づかないのかってね」 「信じられない」萌絵は目を見開き、唇を噛んだ。 「信じる必要はない」そう囁いて、犀川は口を斜めにする。 「どこかで、子供を育てていると? 人工的に作った子供を? どうして? どうしてそんなことを? 子供なんて……、女性ならば、また産むことができるわ。いいえ……」萌絵はぶるっと震える。「もちろん、簡単ではないけれど、でも、でも、どうしてそんなに……、真賀田博士ほどの天才が、そんなに最初の子供に拘《こだわ》るの?」 「どうしてだろう?」犀川は目を細めた。「それは、彼女の価値観であり、モラルだ」 「モラル?」 「たとえば、それが、彼女の愛情なのかもしれない」 「愛情って……」 「僕たちのスケールでは、きっと測れない」 「ドクタ・スワニィも、それに協力していたのね?」萌絵は目を瞑り、額に片手を当てる。  世界のどこかに、そんな強い意志が存在して、そしてこれからも存在し続けるのだ。 「どこにいるのか知らないけれど」彼女は溜息をついた。「落ち着かないわ」 「誰が?」犀川はきいた。 「私」萌絵は目を開ける。 「いいかい」犀川は少しだけ彼女に顔を近づけた。「歴史的に築かれたモラルは、そのほとんどが、生命を守るために、我々が存続するために選ばれた手法の一部なんだ。人を殺してはいけない。人を食べてはいけない。血縁者と交わってはいけない。生命は神聖なものだ。人は神によって作られた。堕胎《だたい》をしてはいけない。自殺をしてはいけない。しかし……」犀川は煙草を吸い、そして煙を吐いた。「それらはすべて、結局のところ、人の集団を守るためのエゴでしかない。自然を破壊してはいけない、何故か? それは人が生きにくくなるからだ。あらゆる道徳は、そのエゴから発している。それが良い、悪いという話をしているのではない。誤解しないで。我々のモラルと、真賀田博士のモラルが違うのは、その基盤が、人間社会にあるのか、それとも、彼女自身にあるのか、その差だ。彼女にとっては、自分自身が世界の中心にある。僕たちは、社会の中心にけっして自分を置こうとはしない。最初から、自分の存在を他人に預け、歴史に預け、役割を担うことを恐れ、働きかけをしないよう、避けている。僕たちは、平穏無事に、ただ安穏と生きていければ良い、毎日が楽しければ良い、美味しいものが食べられれば良い、自分だけが病気にならなかったらそれで良い、と考えている。さて、いったい、どっちが本当のモラルだろう? どっちが真のエゴだろう?」  犀川の言葉を聞いて、どうしてなのか、涙が流れた。  萌絵は、犀川の話していることがわからない。  否、わかる。  わからないのではなく、わかりたくないのだ。  しかし、  四季の映像を久しぶりに見て、自分の中にあったイメージとのギャップを感じたことも事実だった。  自分が拒絶していたものは、何だったのか? 「私は、犀川先生のことが好きで……」萌絵は話した。周囲には誰もいない。日本語のわかる者はいない。「他のことなんか、どうなってもいい……。それと同じこと?」  犀川はじっと萌絵を見据える。 「答えて下さい」 「同じだ」彼は言った。 「もし、そうならば……、私も彼女を許さなきゃいけない?」  頬に涙が伝う。 「許さなくていいんだよ」犀川は少しだけ口もとを緩めた。 「そうね」萌絵は小さく頷いた。「私が許しても、許さなくても、あの人は存在している」 「そうだ。君が許さなくても、地球はある。誰も許さなくても、太陽の周りを回っているんだ」  ハンカチを出して、涙を拭った。  四季も泣いただろうか?  人間は、どうして泣くんだろう。  どうして、どうして、どうして、それを言うのが人間?  けれど、  涙を見てくれる人がいる。  疑問を受け止めてくれる人がいる。  それだけで、充分ではないか。  彼女は目を瞑って息を吸った。  静かに。  自分が泣くことを許すように、  沢山のことを許さなくてはいけない、と彼女は思った。      8  直線を高速で走る電車。保呂草は窓の外を眺めていた。その隣、通路側の席に亜樹良は座っている。客は少ない。女性の車掌《しゃしょう》が通り過ぎていった。 「どうして、君のご主人は、エンジェル・マヌーヴァを手放した?」保呂草が尋ねた。 「持っていたくなかったんだろうね」亜樹良は答える。「あんなに苦労して探したのに。そう……、きっと、自分が死んだとき、棺の中に入れられるのが嫌だったんだろうなぁ」 「冥土《めいど》の土産《みやげ》には、ちょっと高価すぎる」 「貴方は、どうするつもりなの? それを持ったまま死にたい? それとも、やっぱり誰かに売る?」 「売ったら、またそいつが誰かに売って、ぐるぐると回るだけだ。誰も、こいつを愛さない」 「貴方は愛しているわけ?」 「少なくとも、金よりは好きだな」 「そういう人は珍しいと思うよ」 「珍しいか……。そうでもないと思うけれど……。しかし、泥棒には向かないってことは確かだ。あぁ、ビジネスにも向いていないか」 「これから、どこへ行くの?」亜樹良は尋ねた。 「どこって、パリだよ」 「いいえ、そのあと」 「そのあと? うーん、まだ考えてない。それは、誰と一緒かによるね」 「日本に戻る?」 「知り合いが多くて……、誰かにばったり会ったりしたら、危険だな」 「でも、会いたい人だっているんじゃないの?」 「君はどうするつもり? まだ、書くものがある?」 「あるよ、いくらでも」 「そうだろうね、普通の人生じゃなかったものなあ」保呂草は笑った。 「貴方ほどじゃないよ」 「ああ、僕も何か、書こうかなあ」 「書いたら? 良いお金になるかも」 「だからさ、金なんかいらないんだって」 「そう? でも、生活費がかかるよう、特に、日本は」 「そのときは、エンジェル・マヌーヴァを売ろう」保呂草は微笑んだ。「僕ら、二人くらいは食っていける」 「二人って? 貴方と、誰?」 「君」 「私?」 「だって、一応これ、君にも権利があるものだろう?」保呂草はポケットから、それを出す。エンジェル・マヌーヴァだ。彼は、それを彼女の方へ差し出した。「ほら、首にかけていくと良い。飛行機に乗るときも、それが一番怪しまれない」  亜樹良はそれを受け取った。 「ありがとう」彼女は素直に思ったことを口にした。久しぶりのことだった。「そうだね。バッグに入れて預けるよりは、安全かも」      9  萌絵と犀川は、タクシーで市街地まで出て、街角のレストランでパスタ料理を食べた。これはなかなか美味しい、と萌絵は思った。宿屋に戻ったのは八時頃だ。部屋にはテレビもない。インターネットもできない。犀川は、本を持ってきていたので、ベッドでそれを読み始める。専門書で英語みたいだった。内容については尋ねないことに萌絵は決めた。途中で、フロントにお湯をもらいにいき、紅茶を淹れて飲んだ。それでもまだ九時。  ソファに腰掛け、肘掛けにしばらく頬杖をついていた。窓の外は暗い。カーテンの模様も、天井のひび割れも、全部観察済み。今から外に出て一人で散歩をするのも無謀だろう。そういえば、夕刻には道路向かいの例の事件現場も片づいていた。 「さきにお風呂に入ってもよろしいですか?」萌絵は決心して立ち上がった。  犀川が顔を上げる。 「どうして、僕にきくの?」 「どうしてって……」 「お風呂、僕のものじゃないよ」犀川は微笑んだ。  あまり可笑しくなかったが、笑うことにして、萌絵はバスルームへ入る。お湯をバスタブに流し、温度を確かめてから、部屋へ一旦戻り、バッグを開けて支度を始める。 「明日は、どうします?」彼女はきいた。 「どうしたい?」 「まだ、帰りたくない」 「どうして?」 「帰ったら、先生、またお忙しいでしょう?」 「だからといって、帰らなかったら、忙しさが酷くなるだけだよ」 「お仕事、楽しいですか?」 「ん? どうして?」 「なんか、いつも会議だとか、委員会だとか……、こんなこと言ったら、よけいなお世話だって言われそうですけれど、好きなことだけをなさっていたら良いのではありませんか? もう充分に、先生は社会のために貢献していると思いますよ」 「していないと思うよ」 「そんなことありません。私たちは、先生から充分に学びました」 「好きなことだけをしていたら、それは仕事じゃない」 「どうしてです?」 「嫌なことをするから、お金がもらえるんだ」 「それじゃあ、お金をもらうために、お仕事をされているの?」 「そうだよ。当たり前じゃないか」 「だったら、私が先生の生活費を全部出します。それなら、先生は働く必要はありません」 「ありがとう」犀川は笑った。「そうなったら、明日から、大学を辞めるよ」 「え、辞めても良いの? 研究は?」 「研究なんて、どこでもできる。大学に籍を置かないとできないことは何一つない」 「そうなんですか……」 「実験をしたいとき、ちょっとした設備や人員が身近にあって、すぐに使える、というくらいの価値だよ。だけど、そうだなあ、たとえば、そういうときは国枝君に頼めば良い。君だって、そのうち、どこかの大学の先生になるだろう? 僕はもう引退して、ひっそり山小屋にでも籠《こ》もって暮らしたいな」 「そうしましょう」萌絵は犀川の方へ歩み寄った。「先生は好きなことだけをなさっていれば良いです。お金の心配なんかしないで」  犀川は、じっと萌絵を見た。 「真面目な話をしているの?」彼はきいた。 「真面目ですよ」彼女は頷く。  彼はくすっと笑った。  それから、黙って視線を落とす。また本を読み始めた。 「あのぉ……」 「お風呂が溢《あふ》れるよ」犀川は言った。  慌ててバスルームへ駆け込んだが、まだバスタブの半分ほどしか溜まっていなかった。  結局、バスルームの椅子に腰掛けて待つことにした。窓のカーテンを手で持ち、外を覗いてみたが、宇宙みたいに真っ暗闇だった。少し寒かったので、膝を片方抱え込む。 「私と結婚すれば、仕事なんてなさらなくても良いのよ」髪を持ち上げながら、独り言を口にする。  鏡の中の自分を見た。  表情をつくって、演技の練習をしている役者のようだ。  それも、ずいぶん下手《へた》な役者。  お湯はあまり熱くなかった。もう少し加減をすべきだったかもしれない。しかし、のんびりとお湯に浸かることができて、結果的には悪くはない。熱かったら、こんなに長くは入っていられなかっただろう。  バスルームから出たのは四十分後だった。もうすぐ十時。ベッドの犀川は、今は枕に本をのせ、躰を横にした姿勢で、片腕に頭をのせていた。  萌絵は自分のベッドに腰掛ける。犀川の正面に来たが、彼はこちらを見ない。彼女は白いバスローブを着ている。 「先生も、どうぞ」 「ああ」  脚をベッドにのせて伸ばす。バスタオルを巻いた頭を枕の上にゆっくりと沈める。カバーの上からだ。  気持ちが良い。  彼女は目を瞑った。  何かを考えようとしても、血液の流れがそれを邪魔する、そんなイメージがあった。  目を開けると、隣のベッドに犀川がいない。  読んでいた本が、そのまま伏せられていた。  バスルームだろうか。  音は聞こえない。  ドアがノックされた。  萌絵は慌てて起き上がった。  もしかしたら、ホテルの人がポットを取りにきたのかもしれない。古い部屋なので、ドアの覗き穴も、チェーンもなかった。鍵穴に大きなキーを差し入れて、それを回す。ドアを開けると、黒いドレスの女がそこに立っていた。  萌絵よりも長身で、彼女を見下ろすような視線だった。  萌絵は後ろに下がる。  一歩。  そして、もう一歩。  息を止めた。 「真賀田博士」  四季はドアを片手で押し、部屋の中へ入ってきた。  映像ではない。  生きている人間だ。 「こんばんは」彼女は滑らかに発音する。「西之園さん、お風呂上がり?」 「あ……」萌絵はまた一歩後退した。 「すぐに出ていくわ。騒がないで」四季は萌絵の方へ詰め寄った。「うん、女らしくなったわ。あっという間ね、人間の成長なんて」 「あの、どうして……」 「混乱している」四季は微笑んだ。「でも、心配はいりません。貴女に危害を加える理由が私にはない」 「何をしにいらしたのですか?」 「お話よ。私の娘の父親が誰か、貴女は知らないでしょう?」 「え?」 「それが、昼間の地下室では言えなかった第四番目」 「新藤さん、なのでは?」 「どうして?」 「だって……」  萌絵は、咄嗟《とっさ》にバスルームのドアを見た。一瞬迷う。犀川を呼ぼうか、しかし、犀川と四季を会わせたくない。 「犀川先生を呼ぼうと考えた。でも、私と犀川先生を会わせたくない」四季は淡々と話す。「私の娘の父親が、犀川先生だったら、どうする?」 「え?」萌絵は身震いし、そして何故か少し笑った。顔がひきつったという方が近い。 「そんな、馬鹿馬鹿しいことを……」 「そうかしら。犀川先生が大学にいらっしゃったときです。京都のね。その機会がなかったと、貴女、断言できますか?」 「そんなはずはありません!」 「どうして、そんなにむきになるの? 貴女の犀川先生を取ろうというわけではありませんよ。たかが精子だけのこと」 「帰って下さい。お願いです!」 「いいですか。この思考の飛躍、この想像の幅。私が言っていることがわかる? 貴女が縛られているものは、貴女自身の歴史。貴女自身の惨《みじ》めさなのよ。捨てなさい、そんなものは。もっと自由になれる。貴女にはその能力がある。自由を勝ち取るのです」 「お願い、出ていって……」 「もう二度と、貴女の前には現れません」四季の口調は急に優しくなった。「可愛らしい人」彼女は片手を差し伸べ、萌絵の頬に触れようとした。  しかし、その手を途中で止め、  青い瞳は萌絵を見据え、  やがて目を細め、  優雅な速度で、丁寧に頭を下げた。  背中を向け、  ドアを引き、  通路に出る。  こちらを向いても、彼女は伏し目がちで、もう視線を合わせることはなかった。  ドアが閉まる。  呼吸。  息の音。  萌絵はしばらく黙って、そこに立ち尽くしていた。  躰中の力が、無秩序な方向へ働き、けれど、それらが均衡し、どうにか全体を静止させている。  息の音。  自分の呼吸の音を聞く。  躰が斜めになって、倒れそうになる錯覚。  胸に当てていた両腕。  急に、ぶつかるようにドアへ。  鍵をかける。  目を瞑り、唾《つば》を飲み込んだ。  気持ちが悪くなる。  吐き気がした。  頭痛も。  ベッドへ戻り、倒れ込む。  何も考えたくない。  しかし、いろいろな情景が思い浮かんだ。  体育館に並んでいる死体。  滑走路に立ち上る炎。  手を握り締める。  力いっぱい。  駄目だ。  ここで諦めてはいけない。  歯を食いしばって、自分を引き戻した。  呼吸。  大丈夫。  そうだ、これは私のエゴ。  私が、彼を独り占めしたい、というエゴなんだ。  そんなものは、実体として存在しない。  彼が使ったバスタオルも、  彼が踏みつけた絨毯も、  スリッパだって、吸い殻だって、私のものじゃない。  彼が吐き出した空気だって……。  いったい、私は、彼の何を求めているのだろう。  彼に触れてもらいたい。  そう望んでいる自分だけが、私のものだ。  私の髪も、私の躰も、今は、  今だけは、私のもの。  けれど、  私の息が私から離れていくように、  私の躰の細胞は、どんどん、私から離れていく。  それは、もう私のものではない。  私は、どこにいるのだろう?  私は、どこへいくのだろう?  自分の居場所すらよくわからないのに、何故、彼が欲しいのか。彼をどこへ仕舞うつもりなのだろう?  仕舞う?  そう、それもエゴだ。  私の引出に入れてしまえば、私のものだと信じている。  なんという、儚《はかな》い幻想。  四季の言ったとおりじゃないか。  自分で自分を制限して、  思考を縛り、  想像を抑え、  不自由さと惨めさを、自分で演出しているだけ。  そうか……。  少しわかった。  溜息。  鼓動は既に収まり、躰は冷たくなっていた。  彼女は静かに目を開いた。  顔を横へ向けると、隣のベッドに犀川がいた。  本を読んでいる。  萌絵がじっと、見つめると、彼もこちらを向いた。 「どうした?」 「いえ……、変な夢を見たわ」 [#改ページ] 第5章 祈りと願いの外積 [#ここから5字下げ] そして玉座の上には、貧しい少年が横たわっています。色あおざめた顔は浄化されており、目は天上にむけたままです。しかし、手足はもう死んで、だらりとたれていました。あらわな胸。みすぼらしい着物。そして、それを半ばおおいかくしている銀のゆりの花のついた、りっぱなビロードの掛け布。この少年は、かつてゆりかごのなかにいたころ、そのそばで「この子はフランス王国の玉座の上で死ぬであろう」と、予言されたのでした。 [#ここで字下げ終わり]      1  結局、イタリアに滞在したのは四日間。帰国後、たちまち平生に戻り、萌絵はいつもにも増して仕事をした。いつから、自分のノルマのことを「仕事」と呼ぶようになったのか、不思議だった。やっていることは基本的にこの四年ほど変化はない。最初のうちは、犀川や国枝の言うことを聞いて、そのとおりにやっていれば良かった。あるいは先輩の大学院生から、手伝ってくれ、と依頼される作業がほとんどだった。現在は、犀川からも国枝からも、指導されることは滅多にない。先輩もいないので、誰からも作業の依頼は来ない。むしろ彼女が、後輩たちに作業を与える立場だ。その割合が年々増していた。つまり、何をするかを自分で考え、人の分まで仕事を作っている。上からは何も言われないのに、今の方が忙しく感じるのが不思議である。人から言われてやることが仕事だと考えていたのに、それも逆だった。  自分が一番よく知っていること、自分にしか事情がわからないことも多くなった。もし結果に間違いがあれば、それはすべて自分の責任になる。そういったプレッシャが、彼女を慎重にし、そして、何度も立ち止まり、後ろを振り向かせるようになった。その分、前進速度は衰えた。周囲を見回すようになり、逆に自分の立場が理解できるようになった。前ばかりを向いていた頃には、考えもしなかったことだ。  そして、自分が若かった頃に、先輩たちから言われたこと、彼らの反応、彼らがとった行動、そのときどきの彼らの気持ちをトレースできるようになった。最近では、助手だったときの国枝の気持ちが、少しだけ理解できるようにもなった。犀川のことも、ほんの少しだけ……。  こういった事象が、つまり、昔の自分の位置からの距離が、すなわち、人間の成長と呼べるものだろうか。そして、これを自覚することこそが、成長によって生み出される唯一の価値だとも思える。これも、若い頃には考えも及ばなかったことだ。  一方では、そうした冷静な認識を包み込むようなイメージとして、自分自身の個の存在を感じるのだった。他の言葉でいえば、それは「孤独」だろう。  自分は一人独立している。他人ではない。その存在の自覚が、かつての幼い自分と、現在の自分とを比較するのだ。  孤独とは、淋しいものではない。  自分がここにいる、という位置を、  その足許の確かさを、見つめること。  だから、孤独だと冷静に感じることができるのは、自分の足許の確かさを知っている者だけで、その状況自体が幸せといえる。  愛する人を見つめることは、結局は、孤独を知ることであって、そして、きっと、自分を知ることになるのだ。  そういうことが、少しだけわかった。  しかし、そうはいっても、日々の小刻みな時間と、細かい不合理さを含む用件に埋もれてしまう。自分の周りを流れる泥流の中で、紛れ込む光るものに目をとめる暇もない。  溜息をつき、天井を見上げることが一日に何度かある。天井には何もない。自分の人生にも何もないかもしれない。これで、良いのだろうか、という疑問が、天井に書いてあるわけでもない。  これがしたい、あれがしたい、と考え、  しかし、それができてしまったあとは、何をするのか?  そのシミュレーションができるようになる、  それが歳をとったということだろう。  想像ができないことなど、何一つないのだから。  自分がどれくらい喜ぶかも、  自分がどれくらい落ち込むかも、  すべて予測可能。  もう、それだけのデータが、これまでの人生で揃ってしまったみたいだ。あとは、僅かな修正を繰り返していくだけだろうか。このさき、今までになかったような悲しみも、かつて経験のないほどの喜びも、もう味わえないような気がする。  だが、それで良いではないか。  そうだ、自分が子供を産めば、また価値観が変わるかもしれない。もう一度、楽しみも、悲しみも、その子に教えようと思えるだろうか。  きっと、そう思うだろう。  計算結果を図面にまとめることができたので、国枝にメールで送った。もう一度確認しろ、と叫ぶ自分もいたけれど、彼女は振り切った。両手を伸ばして、椅子の背もたれを押して背伸びをする。それから、コーヒーを淹れるために立ち上がった。  フィルタをセットしたとき、すぐ横のドアが開いて、M1の山吹早月《やまぶきさつき》が入ってきた。 「あ、僕がやります」持っていた荷物を置いて、彼は言う。 「いいよ、これくらい」萌絵は笑った。 「いえ、僕がやった方が美味《うま》くなります」 「どうして?」 「いろいろ秘訣があるんですよ」  しかたがないので、任せることにして、萌絵はデスクへ戻った。口笛を吹きながら、山吹がコーヒーメーカをセットしている。機械は全自動なのだから、違いが出るとしたら、粉の量、フィルタ内への粉の入れ方、それくらいではないか。  また、ドアが開き、今度は国枝桃子が入ってきた。彼女は真っ直ぐに萌絵のところへ来る。 「見たよ」国枝は言う。「ちょっとききたいことがある。図面、出せる?」 「はい」萌絵は頷く。  国枝にメールで送った元の図面をウインドゥに表示した。今までずっと操作していたので、アプリケーションも立ち上がったままだった。 「これさ」画面に指をさして、国枝が言う。「おかしいよ、境界条件の最低値を用いるっていう仮定。どうして? 境界エリアは、外側の影響は受けるけれど、一度シールドされた内側の影響を受けることはない。となると、内側の値がいくら小さくなってても、それに支配される道理がない。違う?」 「違います」萌絵は答えた。「この要素は、境界に位置していますが、それは解析上、あるエリアの、つまり広がりを持った部分を代表しているのです。そうなると、内側の影響要因を含めた形でモデル化しないと、将来、要素分割の影響を受けることになります」 「そうかなあ。一度計算し直してみて」 「しました。先生のおっしゃる方法では、合いません」 「本当に?」 「ええ」 「そう……」国枝はメガネに指をやり、溜息をついた。「わかった。うん、理屈は理解した。でも、今までに誰もやっていない手法だから、ちゃんと説明しないと、今のこれじゃあ、誰も納得しないよ」 「概念図を描いて、説明を追加します」 「うん、そうだね。もしそれでうまくいくなら、つまり、他の事例にも応用できるんなら、それはそれで、価値があるな」 「はい、ありがとうございます」  国枝は、首の運動をしながら、ドアの方へ戻っていく。途中で、山吹の前で一度立ち止まった。 「こら、コーヒーなんか淹れてる場合か?」国枝は言う。「実験のデータ、出てないぞ」 「すいません。どうも、コンピュータが調子悪くって」 「調子が悪いのはお前だ」そう言い残して、国枝は出ていった。  山吹が萌絵のところへ近づいてくる。 「凄いですね」彼は言った。 「何が?」キーボードを打ちながら、萌絵は顔を上げる。 「国枝先生を言い負かせるなんて、西之園さんだけですよ。初めて見ました」 「もう長いからね」彼女は簡単に言った。  また、ドアが開く。 「ちょっと、西之園さん」国枝が顔を出した。「私の部屋へ」 「あ、はい」萌絵は返事をする。  国枝は、山吹を二秒ほど睨みつけてからドアを閉めた。 「ひぃ、聞こえたかなぁ」 「聞こえた聞こえた」萌絵は言う。手はまだキーボードを叩いていた。メールのリプライを書いている最中だった。      2  国枝の部屋のドアをノックする。返事が聞こえ、萌絵は中に入った。デスクの手前に大きなテーブルがあって、国枝はそこの椅子に腰掛けていた。萌絵を待っていたようだ。 「何でしょうか?」 「うん、大したことじゃないけれどね」国枝は言った。彼女が話を切り出すときの四十パーセントは、この言葉で始まるように観察される。「このまえ、犀川先生とイタリアへ行っていたでしょう?」 「うわ、どうしてご存じなんですか?」 「犀川先生から聞いたから」 「まあ」萌絵は口を開ける。「おしゃべりですね」 「座って」国枝は片手で示す。  萌絵は椅子を引いて、腰掛けた。テーブルを挟んで、二人でゼミをするときと同じフォーメーションである。 「あそこの教会堂を見てきたんでしょう?」 「あ、ええ、はい」萌絵は頷く。しかし、名称さえインプットされていなかった。「楕円ドームの……」 「あの前で、人が死んでいた事件……」 「それも、犀川先生からですか?」 「いいえ、ネットのニュースで」国枝は、テーブルの端《はし》にあったノートを引き寄せ、画面を萌絵の方へ向けた。  英語のサイトだったが、萌絵はそれを読む。ボールドになっている部分は固有名詞だった。地名、それから現地時間、そして、見つかった死体の身元……。 「え? ロバート・スワニィ?」萌絵は顔を上げる。自然に身を乗り出し、画面に顔を近づけて、もう一度確かめた。 「そう」国枝は頷く。「いつだったかな、貴女、この人のこと言ってたよね」 「え、本当に? あそこで死んでいたのが?」 「死んでるの、見たの?」 「ええ」 「何かに取《と》り憑《つ》かれているって思った?」 「いいえ」萌絵は横目で国枝を見た。 「正常だね」国枝は表情を変えない。 「だんだん、犀川先生に似てきましたね」  国枝は咳払いをした。 「何があったのか、少し説明してもらいたいんだけど」国枝は言う。「もちろん、貴女が話しても良いと思うことだけでけっこう」 「犀川先生、何も言いませんでした?」 「うん、何も」 「えぇ? 私と一緒だったことは話したのに?」 「そういうこと」 「どういう神経しているんでしょう」萌絵は口をとがらせた。「誤解してくれって言っているようなものですよね」 「別に誤解はしていないと思うよ」  萌絵は事実をほとんどありのままに説明した。ただし、ホテルに帰ったあとのことは例外だ。あの夜見た夢の話はもちろんしなかった。  四季が部屋に訪ねてきた夢は、萌絵にとっては、一番リアリティのあるショッキングな事象だったけれど、夢が彼女自身の思考を反映している、と受け取られることが不満だった。だから、これは犀川にも話していない。 「へえ、凄いなあ」国枝は腕組みをする。「あいつがいたなんて……。何? 本名は何だって?」 「保呂草です」萌絵は答える。  国枝桃子も、あの男を知っている。エンジェル・マヌーヴァが盗まれた場所に二人ともいたからだ。 「しかも、犀川先生の知り合いだったって?」 「そうなんですよ。怪しいでしょう?」 「どっちが?」 「犀川先生は怪しくありません」 「そうかなぁ」国枝は難しい顔をする。 「あ! もしかして……」萌絵は突然思いついた。「新藤さんのところへきた作家って、あれも保呂草さんだったのかも。髭を生やしていたって、言ってたから」 「ちょっと、一人でおしゃべりしないで、ちゃんと説明してもらえない?」 「国枝先生、最近、こういうことに、ご興味をお持ちなんですね」 「皮肉?」 「いえ、とんでもない」 「真賀田四季関係のことは、そりゃあ、興味あるよ」 「ですよねぇ」  萌絵はまた説明をする。保呂草も、真賀田四季の残したレゴの兵隊を見たにちがいない。だから、あの日、モンドヴィへやってきたのだ。 「イタリアの警察は、もちろん、ドクタ・スワニィとドクタ・真賀田を関連づけては考えないだろうね」国枝は言った。 「うーん、いえ、わかりませんよ。アメリカで失踪したときにもう、疑っている人間はいたでしょうから」萌絵は話しながら、画面の英語を読んだ。「死因は書かれていませんね。殺されたわけでもなさそうです」 「だけど、その場所で見つかったっていう点が、ひっかかる」国枝が言う。「たとえばさ、あの近くに、真賀田博士の隠れ家があるとか」 「いいえ、それは逆です。近くにあるなら、あんな場所に死体を捨てないでしょう?」 「それもそうだよなあ」国枝は頷く。 「国枝先生は、人のクロンを作ることを、どう思いますか?」 「動物のクロンを作ることと、あまり変わらないと思う」 「賛成ですか?」 「いや、賛成も反対もするつもりはない。そういうのは専門家が判断することで、充分な情報を持たない私が、どちらか決めても意味はないね。ただ、クロン技術で生まれた人間は、本当の人間であって、もし実現するならば、そういった人たちを守る法体制が必要だろうとは思う」 「クロンを人造人間だと思っている人も多いですからね。なんか、フランケンシュタインみたいな化け物だって。そう、クロンにすると、まったく同じ人間がコピィみたいに二人できると信じている人とか」 「あれって、一卵性の双生児の人権に関わる発言だよね」 「肉体が単なる入れものに過ぎない、問題はハードではなくて、そこに芽生えるソフトなんだって、なんていうのかしら、そういった……、フィジカルな拘束から精神が解放される日が、いつか来るでしょうか?」 「難しいことを言うなぁ」国枝は微笑んだ。珍しいことだ。 「先生、子供は産まないのですか?」 「いきなり」 「産まないつもりですか?」 「もう、私、歳だから」 「そんなことありませんよ」萌絵の声が大きくなる。 「あぁあぁ、貴女とこういう話をすると、どうもねえ、あとで気が滅入《めい》るんだよなぁ。やめとこう。人を悩ませるマシンみたいだよね、西之園さん」 「そうですか……」 「昔からそう。そういうさ、電磁波をばらまいてる」 「非科学的なことをおっしゃらないで下さい」 「わかったわかった」国枝は両手を広げて立ち上がった。「もういい、ありがとう」 「犀川先生にメール書いておきますね」萌絵も立ち上がった。 「メールなんか書かないで、会いにいったら?」 「失礼します」萌絵はドアのところで、にっこりと微笑んで頭を下げた。  院生室に戻ると、コーヒーの準備を整えた山吹が待っていた。  デスクに座った萌絵のところへ、彼がカップを運んでくる。 「どうぞ」 「ありがとう」  萌絵は、すぐにキーボードを叩き始める。  山吹が近くでずっとそれを見ていたので、途中で彼女は顔を上げた。しかし、手は止まらない。 「どうしたの?」 「コーヒーを」山吹は笑顔を作りながら、手を広げる。 「ああ、私ね、猫舌だから」 「ちょうど良い温度になっています」 「嘘」彼女は手を止めた。  カップを持ち上げ、口へ運んだ。飲んでみると、彼が言ったとおりである。少し遅れて、香りと味がわかった。 「うわ、美味しい!」萌絵は目を見開く。「豆を替えた?」 「いいえ」 「どうして?」そう言ってから、もう一口飲んでみる。「全然違う。凄い、諏訪野みたい」 「え? スワノミ……?」 「教えて教えて、お願い。コーヒーをね、淹れてあげたい人がいるの」 「自分のためじゃなくて?」彼は少し不満そうな顔をした。 「私の分は、淹れてくれる人がいるのよ」 「意味深なこと言うなあ」 「いいから教えなさい」萌絵は立ち上がった。      3  ボクスタの運転席に乗り込んで、萌絵は電話をかけた。 「はい、犀川です」 「先生、今から行きますから、帰っちゃ駄目ですよ」 「まだ七時半だ。帰らないよ」 「コーヒーも飲まないように」 「どうして? 胃カメラみたいなこと言うなぁ」 「私が淹れてさし上げますから」 「よくわからないけど……、飛ばさないように」  郊外から市内へ向かう道なので、それほど混まない。三十五分後にN大学のキャンパスに到着した。駐車場へ入ると、知った車があった。ナンバプレートも確認する。浜中深志《はまなかふかし》のシャレードである。相当に古い車種だ。  階段を駆け上がって、院生室に入ると、一番手前の椅子に浜中が腰掛けて漫画を読んでいた。彼は、萌絵の先輩で、N大で博士号を取得したあと、三重県のM大の助手に採用された。ときどき、N大へ遊びにくる。 「あ、西之園さん、新婚旅行にいったんだって?」彼女の顔を見て、浜中が言った。 「それ、誰から聞いたんです?」 「みんな」 「イタリアへ行ったって話しただけなのに」 「犀川先生もそう話していたって」浜中は笑った。「国枝先生、元気?」 「ええ」 「来週後半のどこかで、一度C大へ行くよ。先生に見てもらいたい論文があるんだ」 「また書いたんですか?」 「またって、もうだいぶ経《た》つよ。助手ってさ、研究しかしないんだからね。課題とかないし、バイトもしなくていいし、もう研究進んじゃって進んじゃって、しかたないって感じだもん」 「いいなあ、私だって課題はないし、バイトもないのに、全然進まないわ」 「それは、よけいなことしているからだよね」 「ええ、すみません」萌絵は二、三度頷いた。 「へぇ、どうしたの?」浜中が躰を起こした。 「え?」 「素直じゃん」 「あ、そうかそうか、犀川先生のところへ行かなくちゃ。浜中さん、ごめんなさい、また……」 「国枝先生に話しておいてよ」 「え、何を?」ドアを開けて萌絵が振り返る。 「上の空じゃん全然」浜中は舌を出した。「いいよ、メール書いておくから」  片手の指を動かしてみせてから、萌絵はドアを閉める。  通路を横断して、犀川の部屋のドアをノックした。 「失礼します」彼女は部屋の中に入る。 「コーヒー、飲んでないよ」犀川はパソコンのキーを叩きながらこちらを向いた。 「かしこまりました、すぐに淹れます」  萌絵はコーヒーメーカのセットにとりかかる。 「あれ? 豆を買ってきたんじゃないの?」 「いいえ」 「なんだ、そう……」 「まあ、見ていて下さい」 「いや、ちょっと忙しいんで、見ていられない」 「いえ、ご覧になって下さいという意味ではありません」  とにかく、山吹から教わったとおりに正確に水を入れた。今まで、水の量など気にしたことはない。入れてから目盛りで確かめたこともなかった彼女である。あとは、粉の分量をきちんと計って、フィルタの中に入れるときの形に気をつける。簡単だ。しかし、コーヒーの粉を入れようと缶の蓋を開けたところで、彼女の手は止まってしまった。 「あ、駄目だ」萌絵は呟く。 「どうしたの?」 「このスプーンが違うんですよ、形が」萌絵は、プラスティックの計量スプーンを犀川に示す。  彼はデスクから萌絵を三秒ほど見つめてから、無言で頷いた。  そのまま、またキーボードを打ち始める。 「ごめんなさい、なんとか、やってみますけれど」 「別に、スペシャルじゃなくても、いつものコーヒーで良いよ」  非常に落ち込んだが、気を取り直して、コーヒーメーカをセットした。多少は効果があるだろう。      4  犀川は五分間ほど、ずっとキーボードを叩き続けていた。一秒間に数回は打つ。だから五分間で千回以上のキーを叩いたことになる。たとえばこれが、ローマ字入力ならば、平均して五百文字程度になって、一時間だと六千文字、原稿用紙で十五枚だ。すると一日二十時間キーボードを叩けば三百枚、一年続ければ十万枚、一生働けば五十万枚程度になる。これは本にすれば、およそ千冊程度の量だろうか。しかし、どうがんばっても、一室に簡単に入ってしまうくらいの本しか、人間は書けないことになる。  暇だったので、コーヒーが出来上がるまで、萌絵はそんなことを考えていた。犀川も口をきいてくれそうになかったし、車窓から眺める景色と等しい。  カップをデスクへ運ぶと、犀川が作業を中断して、それを手に取った。萌絵は多少期待して、彼の顔をじっと観察する。犀川は無表情のまま、僅かに頷いた。 「どうです?」 「いつものとおり」 「駄目ですか?」 「いや、美味しいよ。今まで、不味《まず》いなんて思ったことはない」 「あぁあ」萌絵は溜息をついた。「駄目だぁ。私って、こういうの駄目なんですよね」 「何のことか、わからないけど」 「お料理関係というか、家事関係というか」 「僕も、たとえば、着替えとか、苦手だよ」  萌絵は吹き出した。 「用事は、これだけ?」犀川はカップを少し持ち上げる。 「いいえ、違います」萌絵は自分のカップもデスクの端に置いて、椅子に腰掛けた。 「モンドヴィで見た、死体のことです。あれ……」 「ああ、ドクタ・スワニィだったんだってね」 「あれ、ご存じだったんですか。どちらから?」 「世津子が電話をかけてきた」 「そうか……、儀同さんは、ロバート・スワニィのこと、ご存じでしたね」 「彼の失踪が、真賀田博士と関係があるって、まえから話していたよ」 「まえから? よく調べましたね、彼女」 「椙田っていう男が、ずっとまえに、世津子に接触してきた。その男がドクタ・スワニィのことを匂わせたそうだ」 「あ、そいつです! あ、あの……」 「うん、保呂草さんだ」 「え、それじゃあ、儀同さんも、ご存じなのですか?」 「いや、彼女には話していない」 「保呂草さん、新藤病院へも行っていたんですよ」萌絵は小さく舌打ちをする。「いいのかなあ、野放しにしておいて。儀同さんにだって、話しておいた方が良いと思いますけれど」 「言わないでほしい」犀川はコーヒーを飲みながら言った。下を向いたままだった。 「何故です?」 「理由を話したら、言うことをきいてくれる?」 「ええ」萌絵は肩を竦める。 「世津子の母親が、保呂草さんのことを、よく知っているんだ。だから、面倒なことになる。彼女は、何もかも母親に話すからね」 「あのぉ……」萌絵は二回瞬いた。「儀同さんのお母様って、つまり……」 「どうしたの?」 「もしかして、先生のお母様とは……、あの、失礼ですけれど、別の方なのですか?」 「あれ、言わなかったっけ?」 「聞いていません」萌絵は姿勢を正した。「初耳です。どうして、そういう重要なことをおっしゃらないんですか?」 「ああ、そうか……」犀川は口を斜めにした。「まあね、あまり、その、君とは関係がないと思ったから……」 「思ったんですか?」 「いや、正確には思っていない。それは今思っただけだ」 「私、先生のご家族のこと、何も知らないわ」 「知りたい?」 「知りたいですよ。だって……」 「関係ないんじゃないかな。これから、君が生きていくのに、必要な情報とも思えないし、役に立つとも思えない」 「あ、もちろん、先生がお話しになりたくない、ということならば、詮索はしません。ええ、私だって、確かに話したくないことはあります」 「へえ」彼は上目遣いに視線を寄こす。 「何ですか? へえって」萌絵は彼を睨み返した。「私が何でもかんでも先生に話ししているみたいじゃないですか。そんなにおしゃべりですか?」 「誰もそんなこと言ってないよ」 「あぁ、だめだめ」萌絵は首をふった。「そんな話じゃなくて……、えっと……」 「スワニィの話」 「そうそう」萌絵は顔をしかめた。「頭悪いですね」 「歳のせいだと思うよ」 「どうして、そういうことを……」 「いや、率直に言っただけだ。気にすることはない。誰でも、だんだん馬鹿になる」 「気にしますよ、そんな言い方されたら」 「ドクタ・スワニィは、遺伝子やクロンの権威というよりは、むしろ細胞関係の実験屋だった。冷凍保存の領域でも、幾つかの特許を持っていた。世津子の話によると、真賀田博士との接触は、もうかなり古いらしい。博士がまだアメリカの大学にいた頃だ。スワニィも若かっただろうね」 「すると、その頃から、研究所の脱出を計画していたってことですか? いくらなんでも、それは……」 「それはない」犀川は首をふった。  彼は煙草を取り出して火をつける。萌絵はその間に、コーヒーカップを口へ運んだが、まだ熱かったので、香りを味わうことしかできなかった。  彼女はしばらく黙って待つ。犀川は煙を二回吐き出してから、話を再開した。 「もちろん、いろいろな学者が、真賀田四季と接触をしたがっただろう。彼女の思考力が、彼女の発想が、役に立たない分野はない。逆に、彼女の方からも、各研究領域へのアプローチがあったと思う。彼女が、自分自身について、自分が関わる探究活動について、どんな計画を持っているのか、とても計り知れないけれど、必要なものは取り入れ、具体化していったはずだ。そういった手順には特別な方法はない。研究とはすべて例外なく地道なものだ。唯一差があるとすれば、それは速度だけ。速度を決めるものは、力だ。資金力、知力、労力、そして集中力。だから、ドクタ・スワニィが、そういった補助力として、彼女のシステムに組み込まれた可能性は高いね」 「どうして、亡くなったの?」 「さあ、それは問題ではない」 「ええ……、モンドヴィのあの場所に、何故、死体が曝されたか、ですね?」 「あの日に」犀川は煙を吐き出した。 「私たちに対するメッセージ? 何かに気づかせようとしているのですね?」 「彼女は、スワニィが関係していることを僕たちが知らないと考えていただろう。それを知ったのは、保呂草さんが偶然、真賀田博士とドクタ・スワニィが会っているところを目撃したからだ。もう二十年以上まえのことだ。真賀田博士自身も、目撃されていたことを知らない。僕たちにそれが伝わるとも予測していなかった。だからこそ、わざわざ、今回、それを教えようとしたんだよ」 「ああ、そうか……」萌絵は頷いた。「真賀田四季でも、知らないことがあるんだ。でも、それで、何か、先生わかりました? またすぐにはわからないようなことで、私たちがちっとも気づかないって、真賀田博士は満足するんですね? ホント、サービス満点っていうか……」 「残念ながらね」犀川も呟くように言った。 「娘さんの生きた細胞を持ち出して、どこかでクロンを育てているのかしら。それが正解ですか?」 「正解というものはないよ。研究と同じだ」 「もっともっと考えたら、わかるかもしれない。それが正解だって、自信が持てるかもしれないわ」 「そう……、そのとおり。自信が持てるまで考えるしかない。でも、なかなか、そんなに考えられないんだよ、人間って」 「そう?」 「ああ、社会で生きていくためには、ずっと一つのことを考えているわけにもいかないね。不思議だよね、嫌だ嫌だと思って出席している会議でも、ちゃんと議題のことを考えているし、そのときどきの、どうでも良いような細々《こまごま》としたことに神経を使っているんだ。身の回りのことからまったく離脱して、一日中、ある一点について考えるなんて、もうとてもできない」 「昔はできましたか?」 「できたよ。若いときは、それができた」 「私、今でも、少しできますよ」萌絵は微笑んだ。「まだ、若いですから」 「そのうち、できなくなるよ」 「あ!」萌絵は突然声を出す。 「夜なんだから、あまり大声を出さないでほしいな」犀川が笑った。 「思いつきました」萌絵は目を大きくして犀川を見る。 「凄いね。僕と無駄話をしながら、考えていられるんだ」 「真賀田博士は、宇宙へ行こうとしているんじゃないですか?」  犀川はそれを聞いて、黙って目を細めた。 「どうです?」 「この世にいない、と言ったから?」 「そうです」 「なるほど」彼は煙草をくわえ、煙を吸い込んだ。 「どこかできっと、その方面に関わっているんですよ。たぶん、NASAですね。向こうだって、彼女の才能が欲しいはず。どうですか?」 「悪くない推理だ」 「でしょう?」萌絵は嬉しくなった。「あ、先生、お忙しいっておっしゃっていましたね。もう、私……」 「宇宙か……、僕も行きたいなぁ」 「何もないんですよ」 「それが良い」犀川は言った。「宇宙へ行きたいんじゃないな。つまり、宇宙船の中に一人だけでいる、というシチュエーションに憧れる」 「二人では駄目ですか?」 「まあ、ぎりぎりかな」 「今夜は引き下がりましょう」萌絵は微笑んで、頭を下げた。「おさきに失礼します」 「おやすみ」  萌絵は自分のカップを片づけてから、ドアのところへ歩いた。 「そうだ」彼女は振り返る。「先生?」 「何?」  もう一度デスクのところまで戻った。 「先生のお母様に、一度お会いできないでしょうか?」 「どうして?」 「どうしてって……、こういうの、普通じゃありませんか?」 「うちは、普通じゃないから」 「先生が? お母様が? お父様が?」 「みんな」 「会ってもらえないって、ことですか?」 「どうかなぁ」犀川は既に画面に向き、キーボードに手をかけている。「会ってどうなるってものでもないし、無理をする必要はないよ」 「無理なんかしていません。ご両親にっていうと、うん、また大変なことになりそうだから、こっそりどこかで、お母様にだけ、ご挨拶をさせていただけませんか?」 「大人になったね、君」 「先生が子供なんです」  犀川はこちらを向き、口もとを僅かに緩める。 「OKですか?」萌絵は確認した。 「いいけれど……」犀川は微笑みながら言った。「少なくとも、その場に僕はいたくない」      5  次の日、萌絵は県警の近藤《こんどう》刑事に会った。車を駐めやすい、ということで選ばれたファミレスだった。  萌絵よりは数年歳上、もう三十歳前後なのだが、つい最近声変わりしたという男である。 「保呂草なんて名前、ちょっと探してみましたけど、どこにも記録は見つかりませんでしたね」近藤はバナナジュースのストローを摘みながら話した。「逮捕歴はありません。で、その男がどうかしたのですか?」 「いいえ、そのお話はそれで終わりです」萌絵は微笑む。「あとですね、このまえ岐阜であった事件、覚えてますか? 私と国枝先生が巻き込まれた……」 「あ、ええ、もちろん」 「あれって、その後どうなっているか知りませんか?」 「知ってますよ」近藤は頷く。「殺人の方は、一応解決していますね。裁判はまだだと思いますけど」 「いえ、その……、あのとき、エンジェル・マヌーヴァっていう宝石というか、美術品が盗まれたんですけれど、そちらが、どうなったのかなって……」 「そう、あれはですね、ちょっと一悶着《ひともんちゃく》ありまして、ええ、結局、捜査は打ち切りです」 「どうして?」 「被害者の家族が、そんなもの、うちにはなかった、存在しなかったって主張してまして」 「え? 盗まれたことを認めていないんですか?」 「脱税ですよ。そんなお宝を持っていたのに、秘密にしていたんですから、確実に申告漏れになりますし、もし購入したのならば、資金の出所が突かれます。どうせ返ってこないならば、持っていないと言った方が被害が少ないって判断でしょう」 「だけど、警察が捜査して、品物が出てきたら、どうするんです?」 「そのときは、自分たちのものだって言いますよ、平気な顔でね。税金を払ってでも、得になるかどうか、ちゃんと計算してからでしょうけど」 「それじゃあ、捜査は全然進んでいないんですね?」 「いや、全然ってことはないと思いますけど。情報収集だけっていうか、ほとんど力は入ってないでしょうね。ちょっと気にかけている、くらいなんじゃ」 「十億円もするんですよ」 「バブルのときの話ですよね。今はどうだか」 「だけど……」 「えっと、そのことで何か、思いつかれたんですか?」 「いえ、違います」萌絵は首をふった。「ま、いっか……」 「え?」近藤が眉を顰《ひそ》める。「まいっか?」 「もうけっこうかしら、という意味です」 「はあ……、知ってますけど」 「あ」萌絵は窓の外を見る。「いらっしゃったわ」  窓際の席だったので、店の前の歩道や道路がよく見渡せる。タクシーが停車していた。 「あ、じゃあ、僕はこれで」近藤は立ち上がった。 「ごめんなさい、急《せ》かせて」 「いえいえ、飲むものは飲みました」彼はレシートに手を伸ばす。 「いえ、これは私が……」萌絵がそれを止める。「どうも、ありがとうございました」 「いつも、すみませんね。また、今度……」近藤は出口の方へ歩いていった。  入れ替わりで、佐々木睦子が店に入ってきた。鮮やかな黄色のコートに、黄色の帽子をかぶっている。店員が声をかけたが、そのまえに萌絵を見つけて、こちらへ近づいてきた。 「庶民的な店ですね」 「叔母様、こんにちは。お飲みものは、何になさいますか?」 「ココア」  ウェイトレスがやってきたので、萌絵は、追加注文をした。  睦子の方から電話がかかり、久しぶりに会うことになったのだ。お互いの居場所から、このランデブーポイントが選ばれた。 「貴女また変な事件に首を突っ込んでいるんじゃない? 今の人、刑事さんでしょう?」 「いえ、ご心配なく」 「イタリアの報告を聞こうと思ったの。帰ってきたはずなのに、全然連絡がないでしょう? 悶々《もんもん》としていましたよ」 「どうして叔母様が?」 「どうだったの?」 「うーん、まあまあでしたね」 「まあまあって? 大きな進展があったのね?」 「いえ、それほど……」 「だけど、こちらは、結婚まえの娘を差し出したんですから」 「叔母様が差し出したんじゃなくて、私が自分の意志で行ったんです」 「何もなかったじゃ済まされませんよ」 「別に、済まそうとはしていません」 「もう……」睦子は顎を引いて眉を寄せる。「私が生きているうちに、何とかしてもらいたいものね」 「あ、そうだ。今度ですね、犀川先生のお母様にお会いすることになりました」 「え?」睦子は目を見開いた。「いつ?」彼女は慌ててバッグから手帳を取り出した。「最近、もの覚えが悪くなってね、こうして、全部書いておかないといけないのよ、情けないわよねぇ」 「あのぉ、叔母様、私一人だけでお会いするんですよ」 「まあ……」 「もう、大人なんですから」 「あらまあ……」睦子は首を傾げる。「さすがに、婚前旅行をすると違うわね」 「何を考えているんです?」萌絵は口をとがらせる。 「そう……、私、抜きですか? ババ抜きってことね」睦子は急にしおらしい表情になった。「酷いわ、そんな言い方って」 「私、言っていませんよ」 「大丈夫かしら。心配だわ。きっと虐《いじ》められますよ」 「どうして?」 「そういうものなの。大事な息子を取られるんですからね」 「言いますよね、それ……」  萌絵は窓の外を見た。  取られる、という睦子の言葉がひっかかった。  自分は、犀川の何を取っただろう。  何を取ることができるだろう?  真賀田四季との夢の中の会話も、テーマは同じだった。  萌絵は、四季に犀川を奪われてしまう、と感じていた。  その不安の実体は、何だろう?  それは、物質ではない。  プレゼントでもない。  精子とか、遺伝子でもない。  絶対に、違う。  萌絵の目の前で、何かが動いた。  自動的に下りていた遮蔽《しゃへい》シャッタを上げる。  睦子の手だった。 「ぼんやりして」心配そうな顔で睦子が言う。「大丈夫? 疲れているんじゃない? お勉強のし過ぎかもよ。先生に認めてもらおうって、焦っているんじゃない?」  萌絵はにっこりと微笑んだ。 「焦ってないわね」睦子も微笑み返した。「逆。もう少し焦ってちょうど良いくらい」 「私ね、叔母様」萌絵は睦子を見据える。「とっても、今、幸せです」 「何を、急に……」 「生きていて、良かった」 「そ、そう……」睦子は躰を引き、椅子の背にもたれる。 「お父様とお母様が亡くなってから、今までの九年半の間で、今が一番、大丈夫よ」 「大丈夫?」 「ええ」萌絵は微笑んだ。「きっと、うまく生きていけると思うわ」 「そりゃあ、そうでしょう」睦子も遅れて微笑んだ。「貴女が、笑っていると、私も嬉しいわ。本当にあのときは、どうしようかって、思ったもの……」睦子は瞳を潤《うる》ませる。「あぁ、本当に……、辛かったわ。私ね、自分の悲しみよりも、貴女を見ている方がずっと辛かった。お兄様が亡くなって、妹として泣いたことなんて、ないのよ。両親を亡くした姪のことで、どれだけ泣いたと思う?」  睦子はバッグからハンカチを取り出した。  萌絵も呼吸を整え、涙を防ぐ。 「叔母様、ごめんなさい、もういいのよ」 「本当に……、とんでもないことが起こったのに、ちゃんと直るものね、人間って」 「そう思います」 「良かった」睦子はハンカチを顔に当てながら微笑んだ。「ホント、あとは犀川先生のことだけ、心配なのは」      6  その庭園はビルの谷間にあった。不思議なことに、起伏が豊かで、小さな池を取り囲んだ土地は岩や樹木を伴って傾斜していたので、細い通路の半分は石段になっていた。竹で編んだ柵が、その古風な家屋を囲っている。どこかから移築したものにちがいない。  西之園萌絵は玄関の前で一度立ち止まり、呼吸を整えた。白いスーツを着ている。コートは駐車場の車に置いてきた。しかし、日差しは春めき、寒さは気にならない。 「ごめんください」玄関の引き戸を開けて、萌絵は声をかけた。  広い土間の左手に縁があり、さらに上がって座敷があった。建物は大きくはない。あと奥に一部屋くらい。土間の奥は勝手だろう。  彼女は、玄関の戸を閉めて待った。  奥の襖《ふすま》が開き、女性が現れる。  着物姿を予想していたが、綿の柔らかそうなワンピースにカーディガンというファッションだった。 「こんにちは」彼女は縁まで下りてきて、そこに座って頭を下げた。「ようこそ」  あまりの若さに、この女性ではない、と初めは思ってしまった。想像していたよりもずっと若い。 「あ、あの。西之園と申します」萌絵は慌てて頭を下げた。「はじめてお目にかかります」 「はじめまして、瀬在丸紅子でございます」頭を上げ、彼女は微笑んだ。  長い黒髪が肩にかかっている。額は前髪で隠れ、大きな瞳が印象的だった。当然ながら、三十代ということはありえない。でも、どう見ても、それくらいにしか見えないのだ。白い肌は滑らかで、唇も艶《つや》やかだった。 「どうぞ、お上がりになって」 「はい、失礼いたします」  畳の座敷に座るのかと思ったが、奥の部屋へ通された。そこは板の間で、絨毯が敷かれていた。中央に年代物のテーブル。そこに椅子が四脚。  小さな窓は、樹木の枝が当たりそうなくらい近い。石垣が少しだけ見えた。土地が傾斜しているため、遠くの風景はまったく見えない。  紅子にすすめられて、萌絵は椅子に腰掛けた。 「想像どおりの方だわ」紅子も椅子に座り、にっこりと微笑んだ。「会ってくれって、あの子から言われたとき、どうしようかなって思いました。今も、どきどきしているわ」 「私もです」萌絵は小さく頷いた。「素敵なお住まいですね。お一人でお住まいだと伺いましたが……」 「そう。誰か住んでいないと、こういうものは悪くなるんですよ。もう、そうね、五年くらいになるかしら。でも、私、畳の部屋に慣れないものですから……」 「あ、私もです」萌絵は頷く。また同じ言葉になってしまった。「小さいときから、ずっと洋風の住まいで育ちました。寝るのもベッドでないと……。あ、いえ、別に、そんなことはありませんね、ええ、どこでも大丈夫だと思います」  犀川の話では、紅子は、管理人として、ここに住み込んでいるらしい。つまり、これが仕事なのだ。優雅なことである。おそらく、自分の敷地に歴史的建造物を移築するような金持ちならば、そこに住まう管理人にも一流の人物をと望むだろう。目の前の女性には、比類のない美しさと気品があった。とても犀川の母親とは思えない。自分は圧倒されている、と萌絵は感じた。 「犀川先生は、よくこちらへいらっしゃるのですか?」 「いいえ、一度も」紅子は軽く首をふった。「そう、一度、連れてきていただけないかしら?」 「あ、ええ、そうですね」萌絵は頷く。 「貴女の言うことならば、何でもきくんじゃない?」 「いえ、とんでもない。全然そんなことありません」 「そう?」紅子は大きく瞬き、首を傾げる。「イタリアへ行ったと聞きました」 「はい、四日間だけですけれど」 「貴女も一緒でしたの?」 「はい、そうです」  先生、肝心なことは話していないのだ、と思う。 「どんなお話だったでしょうか?」萌絵はきいた。 「懐かしい人に会った、と……」 「あ、保呂草さんのことですね」萌絵は言う。「ご存じですか?」 「ええ……、よく」 「あの人は、泥棒なんですよ。私、先日……」 「存じています」紅子は頷いた。「エンジェル・マヌーヴァのことでしょう?」 「はい」 「いろいろ経緯がありましてね。人それぞれ、ものそれぞれに、歴史があるのです」 「ええ、それは、そうかもしれませんけれど、しかし、私としては、見過ごすことは、とても努力が必要です」 「見過ごしているのは、貴女だけではありません。私も、それに彼も」 「犀川先生も?」 「知ってしまったら、見過ごすことになるでしょう?」 「真賀田四季だって、そうなんです。犀川先生は、あの人に会っていたんです。そう話していました。でも、彼女は人を殺した犯罪者です。私は、犀川先生のことを尊敬していますし、そのぉ、お母様の前で恐縮ですけれど、私は先生のことを愛しています。だから、先生が、真賀田四季を見逃したことは、私には、やっぱりショックです。許すことは、簡単にはできません。もちろん、今となっては、もうどうすることもできませんけれど」 「ええ、それでよろしいと思います」紅子は頷いた。 「え、何が、よろしい、のですか?」 「許す必要はない、ということです」 「いえ……」萌絵は首をふった。「実は、よくわからないんです。今回のことで、いろいろなことを、許さなくてはいけない、と感じました。もしかしたら、今は許せなくても、時が経って、私が歳をとれば、許せるのかもしれません。そのときになって、あのとき許してあげれば良かったって、後悔するかもしれません。でも……、それを見越して、今から許そう、すべてを受け入れよう、というふうには、まだできない。ええ、これは、理解する理解しない、というよりは、もっと、その、生理的なものでしょうか」 「許すか、許さないか、どちらかに決める必要はないのでは?」 「気持ちの整理がつかないんです」 「気持ちなんて、整理ができるものですか?」 「でも、ようやく……、最近なんですけれど、私、両親が亡くなったことを、自分の中できちんと整理をすることができました。そう思えるんです」 「貴女が生きてこられたのはね、その整理をさき延ばしにしたからなのよ」 「え?」 「決着をつけようとしていたら、どうなっていたかしら?」 「決着?」 「真賀田四季さんとは、私も会ったことがあるわ」紅子は突然話題を変えた。「もう二十年以上まえのことです。わざわざ私に会いにこられたことも。きっと、仲間に引き入れようとされたのね」 「本当ですか? そのことを、犀川先生にお話しになりました?」 「いいえ」 「仲間っていうのは、お仕事の? お断りしたのですか?」 「ええ」 「どうして?」 「さあ……」紅子は首をふった。「そのときは、彼女は犯罪者でもなかった。誰もが憧れる天才少女でした。感じられたのは、もの凄いパワー、それだけだった」 「もし私だったら、真賀田博士についていったと思います」 「どうして?」 「力には素直に憧れます。自分よりも頭が良い者、自分よりも優れている者には、従いたいと思います。本能的なものではないでしょうか?」 「何故、憧れるのかしら?」 「どうしてでしょう。自分もそうなりたい、という理想が、そこにある、それを眺めていたい、身近に見ていたい、そんな心理だと思いますけれど」 「眺めていても、いくら近くで見ていても、その理想には近づかないわ」 「それはそうですけれど、その理想の人を、自分の方へ向かせれば、その一部だけでも、自分のものにできるかもしれないって……」 「何が自分のものにできるの?」 「えっと……」  同じだ、と萌絵は気づいた。  他人の何を、自分のものにできるのか。  その実体は、何なのか。  同じ概念に自分は拘《こだわ》っている。 「幻想ですね」萌絵は頷いた。 「私は、真賀田四季さんから学ぶものはない、と思ったわ」紅子はゆっくりと話す。「あの方のそばにいても、私は何も得られない。むしろ、吸い取られるだけだと」 「ああ、それは確かに感じます。彼女の前に立つと、そうなんです。見透かされているようで、自分の経験や、感情が、中身まで吸い取られてしまうような、そんな恐怖が……」 「力のあるものに憧れる、という心理には、その力への恐れが存在しますからね。神を愛する者は、神を恐れる者でした。人は、パワーを恐れ、それが自分の方へ向けられないように、そのパワーの下へ集まるのです」 「では、お母様が、真賀田博士についていかれなかったのも、その恐怖からですか?」 「お母様っていうのは、ちょっと……」紅子は吹き出した。「ああ、可笑しい……」 「すみません。失礼しました」萌絵は頭を下げる。 「いいの。ごめんなさい。そんなふうに呼ばれることがまたあるなんて、想像もしていなかったものですから……」 「はい、私も、口にするのに、とっても勇気がいりました。何度も練習してきたのですけれど」  紅子はくすっと笑い、それから、立ち上がった。 「ちょっと待っていて下さる? お茶をお持ちしましょう。紅茶でよろしかった?」 「あの、申し訳ありません。どうかおかまいなく」  紅子は引き戸を開けて出ていった。そちらが勝手のようだ。一段低くなっている板の間が見えた。  萌絵は深呼吸をする。少ししゃべりすぎたのではないか、と不安になった。どうも、あの瞳に見つめられると、話さずにはいられなくなる。そんな効果があるようだ。しかし、それならば、どうして犀川はあんなに無口なのだろう。そうだ、子供の頃の犀川の話を聞かなくては……。  否、それよりも、犀川の父親はどんな人だろう? ここに彼女が一人で住んでいるというのは、何故なのだろう。確か、両親とも元気だ、と犀川は話したことがある。萌絵はそれを急に思い出した。  駄目だ、そんなプライベートなことを詮索するなんて、どうかしている。ついつい、何でも知りたくなってしまう、悪い癖だ。話したければ、向こうから説明があるだろう。尋ねるのは失礼だ。  しかし、真賀田四季の方から彼女に会いにきた、という話は、とても興味深かった。そんなことを四季がするなんて、ちょっと想像ができないからだ。まだ、その頃は、天才も若かったのか。あるいは、瀬在丸紅子という人物が、それほどの才能ということだろうか。  玄関の扉が開く音がする。 「おーい」男の声だ。 「はい」紅子が返事をして、別の扉が開く音。  萌絵は立ち上がって、座敷の側の引き戸に近づいた。 「あれ、お客さん?」 「そう、ちょっと大切な方で……、あ、でも……」 「なんだ?」 「どうしよう」紅子の声。  萌絵は少しだけ開いた戸の隙間から覗き見た。座敷の向こうに明るい玄関、その戸口に立っている男は、影になっていた。手前に紅子がいる。 「西之園さん。ほら、ご存じでしょう?」紅子が説明する。 「え?」  数秒間沈黙があった。 「あ、いや……、帰る。あとで、また来るよ」 「ちょっと、林《はやし》さん」  男は出ていった。  萌絵は急いで椅子に戻った。  さらに数分して、ようやく紅子がお茶を持って戻ってきた。  テーブルにカップを置く。 「あ……」萌絵はそのカップを見て驚いた。「これ、私の家にもあります。ずいぶん、昔のものでは?」 「ええ、大切に使っています」 「いえ、こんな、使うなんて、もったいないです。失礼ですが、もし、お売りになったら、セットで何百万円にもなると思います」 「存じていますよ」紅子は微笑んだ。「これくらいなんです。私の家にあったもので、残っているものは」 「でも、洗って、欠けたりしたら……」 「それが器《うつわ》の本領では?」 「あ、いえ……」萌絵は頷いた。「ごめんなさい、そのとおりです。差し出がましいことを言いました。大変失礼を……」 「素直な方ね、ええ……」紅子は目を細める。「どうぞ」  カップを口へ運ぶと、良い香りがした。まだ熱そうだった。 「今、どなたか、いらっしゃいましたけれど」萌絵はきいた。 「ああ、ええ……」紅子はくすっと吹き出した。「私の主人だった人です」 「それじゃあ、犀川先生のお父様ですね?」 「ええ」 「ご挨拶をすべきでした。失礼をしました」 「失礼なのは、彼の方です」 「でも……」 「愛知県警の刑事だったんですよ。もう辞めてしまいましたけれど」 「え、本当ですか?」萌絵は驚いて、カップをテーブルに置いた。「いつ? あの、いつ、辞められたのですか?」 「えっと、もう、かれこれ十年くらいになりますかしら」 「ああ、では、私の叔父が、こちらへ来るまえですね」 「そう、本部長をなさっているんですってね?」 「はい。でも、十年だったら、知っている人は沢山いますよね? お名前は、もちろん、犀川さんですね?」 「ええ」紅子は頷く。 「ああ、そうか……、犀川先生のことは、捜査一課では、知れ渡っていたんですね。珍しい名前ですから」 「そうでしょうね」 「誰も私に、そんな話をしてくれなかったわ」 「辞めた人のことは、話題にしにくかったのでは?」 「ああ……」萌絵は溜息をついた。「私、何も知らないんです、犀川先生のことを。もう十年以上、いえ、子供の頃からですから、十五年以上もおつき合いがあるというのに……」 「私も、あの子のことは何も知りませんよ」紅子はおっとりとした口調で言った。「もう三十年以上も、おつき合いがあるのに……。でもね、西之園さん、私、あの子を愛していますの。知らなくても、愛せるのですよ」 「はい」萌絵は頷いた。「もしかしたら、知らない方が、愛せるかもしれません」紅子はまた笑った。 「面白い方」 「あのぉ、お母様は、私が犀川先生を愛していると聞いて、どう思われますか? 嫉妬なさいませんか? 自分への愛情がその分、減ってしまうのではないかって、不安になりませんか? 変な話をして、申し訳ありません。でも、私は……、先生が、真賀田四季のことを考えていることが、ずっと許せなかった。私だけを見てほしかった。明らかに嫉妬していました」 「扇風機のように、前にしか風が来ないのなら、こちらを向いてくれないと困りますけれどね。たとえば、太陽はどう? メキシコが晴れていたら、その分、日本は損をしますか?」 「つまり、その差は、何ですか?」 「貴女が、太陽を好きになったか、扇風機を好きになったか、の差です」  萌絵は黙った。  頭の中で、その言葉を反芻《はんすう》する。  カップを手に取り、もう一度試してみながら。  少し熱かったものの、なんとか飲むことができた。  喉を通る熱。  躰に吸収される外乱。  なんとなく、紅子が言ったことが理解できた。  真賀田四季や、犀川創平といった、極端な例だから適用できる、極めて特殊で局所的な法則ではないか、という懸念《けねん》もあったけれど、とりあえず、その場では確かに成立しているように思えた。 「でも、貴女……、それだけは言わなくては、と考えていらっしゃったのね?」 「はい」萌絵は上目遣いに相手を見る。そして、紅子のその洞察に驚いた。凄い、と感じる。 「私も若い頃に、ずいぶん、それで苦しみました。あの人が、扇風機みたいに首を振って、私の方だけを向いてくれない。でも、彼を扇風機にしたのは誰か……」紅子は首を傾げる。「結局は、私の問題なの。私の認識だったのね」 「それは、人を許すということですか?」 「いいえ、自分を許すということ」 「自分を?」 「そうよ」紅子は言う。「人は、自分が許せないときに、悲しくて泣く、そして、自分が許せたときに、嬉しくて泣くの」  窓から急に光が入る。  太陽が動いたためか、あるいは雲が消えたのか。  大切なカップを萌絵はそっと皿に戻した。 「私、では、もうこれで」萌絵は頭を下げた。「どうも、お邪魔をいたしました。美味しいお茶もご馳走になってしまって……」外に出ると、やはり空が明るかった。  池面に落ちた細かい光が動いている。  コントラストがとても美しい。 「どうもありがとうございました」萌絵はお辞儀をする。 「また、お会いしましょうね」紅子は淑《しと》やかな仕草で首を傾げた。 「はい、是非」 「貴女の研究のお話も、お伺いしたいわ」 「すぐに来ます。えっと、では二週間後くらいに」 「ええ」 「メールを読まれますか?」 「こちらから出しましょう」 「では、本当に、ありがとうございました。お会いできて、とても嬉しかったです」萌絵は頭を下げる。 「さようなら」紅子もお辞儀をした。  萌絵は石段を下りていく。池の横を過ぎ、今度は小径《こみち》を上った。  途中で振り返り、玄関口に立っている白い女性を確かめる。  池の上に覆い被さるように赤い葉が広がっていた。  秋でもないのに、紅葉だ。  しかし、とても綺麗だった。  気持ちは軽く、駐車場へ戻ったときにも、躰を弾ませたいほどだった。  何かの答を得たような気がする。  何だろう?  どんな問題だったかしら?  解けてしまったときには、問題も消えている。  それが、本来の問題だ。  消えたあとに、優しい気持ちだけが残る。 [#改ページ] エピローグ [#ここから5字下げ] 女の子は、わっと泣きだしました。皇帝城の美しい娘は、つまらないこわれた粘土のつぼのために泣きました。はだしでそこに立ったまま、泣いていました。そして、どうしても、引き手のひもを、皇帝城の呼びりんのひもを、引くだけの勇気が出ませんでした。 [#ここで字下げ終わり]  パリの夜。チョコレートが溶《と》けたような歌声が流れるカフェ。奥の壁には古そうな写真が飾られていたが、本当に古いのかどうかはわからない。この店もそれと同じだった。  ガラスはすっかり曇ってしまい、外は見えない。すぐ近くのネオンを拡散させるだけ。窓辺に置かれた紺色と深緑のボトルに、その光が反射する。壁のモルタルは、ところどころひび割れ、剥《は》がれている一部は飾り布を張って隠されていた。床は微妙に傾き、テーブルの脚は一本が浮いていたが、この街では珍しいことではない。  保呂草潤平は、コーヒーを飲んだ。二杯目だった。多少の空腹を感じている。時刻はまもなく十時。多少遅い夕食になりそうだが、遅い夕食は、ただの夕食よりは彼にはノーマルだった。  午後に訪ねていった墓地のことが、頭の半分に残っている。広くて立派な墓だった。屋根さえあれば、住んでも良いと思えるくらいに。人間の墓なんて、しかし、二十年もしたら取り壊してしまえば良いのに、と思う。せいぜいが三十年だ。すっかり自然に還っていくのだし、その死を覚えている者もいなくなる。だったら、もう必要がないではないか。あんなに立派な墓を残していると、今に墓だらけになるような気がして落ち着かない。どっちにしたって、今生きている人間よりは、もう死んでしまった人間の方がずっとずっと数が多いのだ。そして、その差は広がるばかりである。  それから、西之園萌絵のことを、また思い出した。不謹慎な話だが、彼女のことを考えると、どうも最初に見た彼女の膝の形が思い出される。いつの間にか、自分はそれに触れたことがあるような錯覚があって、滑らかな感触さえ蘇《よみがえ》る始末。  ふっと息を吐き、煙草に火をつけた。  萌絵に知られてしまったことは、覚悟していたとはいえ、しかし、致命的なことには変わりない。彼女の前には二度と、絶対に姿を見せられない。犀川は黙っていても、彼女は話すだろう。警察にだって、そしてもしかしたら、儀同世津子にも伝わるかもしれない。熱が伝わって全部溶けてしまう。そうなったら、ほとんど日本にはいられない状況と判断して良いだろう。  妙なことに首を突っ込んでしまった。亜樹良を見つけ出しただけで、満足すべきだったのだ。いつも、満足が近づくほど、欲が深くなる傾向が自分にはある。逆に、不満なときほど、我慢ができる。バランスを取ろうとはせず、極端な状態を望んでいるようだ。その方が自分は安心できるのかもしれない。そう、バランスが取れている状態とは、シーソーみたいに、最も不安定な状態にほかならないからだ。  真賀田四季が、レゴのブロックを使って組み立てた冷却装置に関しては、瀬在丸紅子に相談にいったことがあった。彼女は、簡単にその機構を説明してくれた。バッテリィ式の小型のコンプレッサである。モンドヴィでは、もっと驚愕するものが見られるか、劇的な出逢いがあるのでは、と予感していたのに、待っていたのは単なる仕掛け映像だけで、少しがっかりした保呂草だったが、しかしこれで、この件からは足を洗える、とむしろ踏ん切りがついた。  亜樹良に、メールを送ってきたのが四季本人なのか、という問題が残るが、それくらいは振り切れるだろう。  彼女は化粧室を探して店から出ていった。もう五分ほどになる。保呂草は時計を見た。場所が遠いのか、それとも、ついでに何かを買いに近くの店へでも寄っているのか。確か、三軒ほど西に下ったところに、ストアがあった。  何度か店の入口の方へ目を向ける。二つ隣のテーブルに化粧の濃い女が座っていて、ちらちらとこちらを見た。幾度か視線が合った。それで、極力そちらを見ないようにしなければならなくなった。  十分経った。  もしかしたら、逃げられたかもしれない。そう考えた。エンジェル・マヌーヴァを持っている。まさか、先夫の墓に埋めにいったわけではないだろう。駅へ行ったか、それとも飛行場か。しかし、もう追うのは億劫《おっくう》だった。  あんなもの、くれてやっても良い。  もしも彼女が戻ってこないとしたら、その宝物よりも、失ったものは大きい。正直なところは、そちらだ。  考えてみれば、それも自由。二度も逃げるくらいだから、よほど嫌われている証拠だろう。そういった自覚がないことを、反省すべきではないか。  反省?  この歳になって、反省したところで、取り返せるものも僅か。タイルをすべて剥がしたところで時間切れになったバスルームの改装工事みたいなものだ。古いままでも、いびつなままでも、使える状態の方が多少はましというもの。  十五分経った。  どうしようか。厚化粧の女がまた見ていた。今、席を立って店を出たら、ついてくるかもしれない。コーヒーももう飲みたくない。少し頭痛がする。寒かったせいだろうか。  どこかで一人で一杯飲むか。  それとも、ホテルへ直行して、シャワーを浴びて寝てしまうか。  二十分経ったら出ていこう、と決めたとき、各務亜樹良が戻ってきた。 「お待たせ」彼女は滑り込むように椅子に座った。  厚化粧女が席を立ったので、保呂草はそちらに微笑んでやった。 「何? あの人、誰?」亜樹良がきく。 「いや、なんでもない」彼は鬚を触った。 「道路の向こう側に、知り合いの宝石屋があるの。もう店は閉まっていたんだけれど、開けてもらって、これ、見てもらった」彼女はジャンパの胸のところを開けて見せる。そこにエンジェル・マヌーヴァをぶら下げているのだ。「間違いない、本ものだって。それくらい、私だってわかってたけれどね」 「僕だってわかる。偽ものだって疑った?」 「正直、ちょっとだけ」 「そうか、偽ものか……。その手があったな」 「どれくらいの値だと思う?」 「まあ、そうだね……、百万から二百万ってとこかな」 「それ、フラン?」 「その知り合いってのは、大丈夫?」 「うん、私のことを、ボナパルト未亡人だと思っているんだから」  亜樹良は髪を掻《か》き上げ、横を向いた。 「明日は、どこへ行こう?」彼はきく。 「どこが良い?」彼女は再びこちらを見た。「また南米へ戻る?」 「まだ、いろいろ残してあるからね」 「どこへでもついていくよ」  彼女のその口もとを彼は見た。 「墓場の一歩手前までだろう?」 「そう」亜樹良は軽く頷く。「よくわかってるじゃない」 「何か食べよう」 「いいね。ベトナム料理は? 知っている店がある」 「じゃあ、そこへ」  店を出て、歩道をしばらく上っていき、路地へ入った。  両側のビルに挟まれた細い道を今度は下っていく。  次の角を曲がったとき、後ろから、走ってくる足音がした。  保呂草は立ち止まり、振り返る。  男が二人、そして、女が一人。  大きい方が、保呂草の前に立ち、腰の辺りでナイフを見せた。  何か言ったが、聞き取れない。  もう一人は、亜樹良に近づく。そっちもポケットに手を入れていて、何か持っていそうだった。  女は、男たちの後ろに立っている。短いスカートを穿《は》いていた。暗くて顔はよく見えなかったが、カフェで見た厚化粧の彼女だ。  保呂草は両手を軽く挙げた。  男は、訛《なま》った英語でマネーと言い、ナイフを保呂草の方へ突き出す。  両手を広げ、彼は溜息をついた。というよりも、深呼吸をした。そして、息を止める。  ズボンのポケットに手を入れ、財布を取り出し、男に手渡す動作をする。相手の手が出た瞬間に、ナイフを持った方の手首を掴んだ。  躰をぶつけ、膝を折って体重をかけ、手首を捻《ひね》る。 「気をつけろ、そっち!」保呂草は、亜樹良に言った。  ナイフが地面に落ちる。  保呂草はそれを足で蹴った。  もう一人の男は動かなかった。  その男の頭に、亜樹良が銃を突きつけていたからだ。  後ろの女が叫んだ。  亜樹良も何か言い返す。フランス語なのでわからない。  大男の腹部に膝で一発入れて、保呂草はそいつを解放してやった。男たちは通りの方へ走り去る。女もヒールを鳴らして、あとを追っていった。 「何て言ってやった?」保呂草は地面に落ちたナイフを拾いながらきいた。 「失《う》せろ」亜樹良は言う。くすくすと笑いだす。ようやく銃を仕舞った。そういえば、初めて会ったときも、彼女は銃を持っていた。 「そんなものを持ち歩いているのか?」 「役に立ったじゃない」 「立ってない。いきなり刺されていたら、間に合わない。銃を持っていますって、背中に書いておかないと」 「そのステッカ、売れるかも」  可笑しくはなかったが、保呂草も少し笑った。  亜樹良が彼の腕を掴む。  石畳の感触が、地面の不屈さを教えてくれた。  暗い路地はさらに偏屈に下っているようだ。  闇の中へ吸い込まれるように、この道を行こう。  自分たちにはそれが似合っている、と彼は思った。 [#ここから5字下げ] 冒頭および作中各章の引用文は『絵のない絵本』(アンデルセン著 大畑末吉訳 岩波文庫)によりました。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 底本 講談社 KODANSHA NOVELS  四季《しき》 秋《あき》  著者 森《もり》 博嗣《ひろし》  二〇〇四年一月八日  第一刷発行  発行者——野間佐和子  発行所——株式会社講談社 [#地付き]2008年6月1日作成 hj [#改ページ] 置き換え文字 掴《※》 ※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]「てへん+國」、第3水準1-84-89 頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90 噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26 填《※》 ※[#「土へん+眞」、第3水準1-15-56]「土へん+眞」、第3水準1-15-56